ホーム 『父系図』坪内祐三 第三回 杉山茂丸・夢野久作 Page 8

もちろん夢野久作だ。

だからこそ彼は、父親茂丸のこのような言葉をここに書き記したのだろう。

夢野久作、本名杉山泰道 (たいどう)は明治二十二(一八八九)年一月四日、杉山茂丸と高橋ホトリの長男として福岡市小姓町に生まれた。

母は早くに離別され、彼は祖父、義祖母のもとで育てられた。

修猷館 (しゅうゆうかん)中学、近衛歩兵第一聯隊、慶応義塾大学文学部、禅僧、農園経営、『九州日報』記者などを経て作家デビューするのだが、夢野久作のペンネームを初めて使ったのは博文館の雑誌『新青年』の懸賞小説に二等当選した「あやかしの鼓」(一九二六年)によってだった。

『新青年』

大正9年に博文館より刊行され、昭和25年まで続いた。都会的な雑誌として、都市部のインテリ青年の間で人気を博した。

『新青年』

そのペンネームは父茂丸が名付け親だった。「夢野久作の生涯」(『夢野久作の世界』に収録)で杉山龍丸はこう書いている。

大正十五年「あやかし鼓」を『新青年』に発表することになり、ペンネームをいかにするかということで、東京の茂丸の家で相談をしているとき、父茂丸が俺に読ましてみろということで、原稿を読んだあげく、

「ふーん、夢野久作が書いたごたある小説じゃねー。」ということで、夢野久作というペンネームにした。

夢野久作というのは、旧黒田藩、または博多で、ぼんやりして、夢ばかり追う、間の抜けた人間のことを言う方言であった。

夢野久作となった杉山泰道はその後旺盛な執筆活動を続け、昭和十一(一九三六)年三月十一日(すなわち二・二六事件の二週間後)、脳溢血によって四十七歳で急死する。代表作である書下し長篇『ドグラ・マグラ』(松柏館書店)、そして『近世怪人伝』(初出は『新青年』)はその前年、昭和十年に発表されたものであり、その年はまた(七月十九日に)、父杉山茂丸が七十二歳で同じく脳溢血で亡くなっていた。

つまりこの父子は一年以内に、相継いで、同じ病に (たお)れたのだ。

ライフワークと言われる長篇『ドグラ・マグラ』を完成させたあとで、夢野はどのような次作を構想していたのだろうか。

そもそも彼は小説家としての執筆活動を続けようと考えていたのだろうか。

夢野久作の最後について杉山龍丸は「夢野久作の生涯」でこう書いている。

五・一五事件、二・二六事件等、彼が生きていた昭和の初期、彼の父、杉山茂丸が死去したことから起る、日本の暴走の姿をみつめて、彼は一つの決意をもって何等かのことをしようとしていた。東京の杉山茂丸がやっていた台華社を新しく出発させる計画をもっていた。そのため、杉山茂丸が、日本国中に生んだものを始末するのに全力を注いだ。

それが、約十ヶ月後、大略出来たことと、会計の精算が出来た報告をうけて、報告者、朝日ビールの林社長とお祝いを云って、大笑いしたまま、仰向けに、両手をあげて、倒れた。継母や異母妹が、庭に走り出て、二・二六事件に降った雪をつかんで来て、頭を冷やしたが、彼の生命は甦らなかった。

彼すなわち杉山泰道は「一つの決意をもって、何等かのことをしようとしていた」と杉山龍丸は書き記す。するとあらためて、「近世怪人伝」の中に残された杉山茂丸の、「俺みたいな真似は他人にさせてはならないのだ」という台詞が胸に響いてくる。

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「父系図」坪内祐三
第三回 杉山茂丸・夢野久作

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