ホーム 『父系図』坪内祐三 第二回 内田魯庵・内田巌 Page 7

『文学者となる法』は筒井康隆 (つついやすたか)の『大いなる助走』や『文学部唯野教授』の先駆とも言える文壇パロディーの大傑作だが、のちに魯庵自身はこれを旧悪としてひどく恥じ、自らの著作と認めようとせず、稀覯本となっていたこの作品が一般の読者の目に触れられるようになったのは、魯庵没後、昭和五年七月、改造社の所謂円本『現代日本文学全集』の『長谷川如是閑 (はせがわにょぜかん)集・内田魯庵集・武林無想庵 (たけばやしむそうあん)集』に収録されてからだ。

長谷川如是閑(1875〜1969)

明治〜昭和時代のジャーナリスト・評論家。
大正8年大山郁夫らと「我等」を創刊し、自由主義の立場からファシズム批判活動を展開した。

武林無想庵(1880〜1962)

明治〜昭和時代の小説家・翻訳者。
明治36年、小山内薫らと同心誌『七人』を創刊する。

だがこの円本は彼の息子巌への大きなプレゼントとなった。

内田魯庵の長男として明治三十三(一九〇〇)年二月、東京牛込に生まれた巌は同四十年、暁星小学校に入学する。

しかし彼は同中学校に進学したのち、フランス人神父を中心とする教師から幾つもの濡れぎぬを着せられ、つまり反抗的生徒のレッテルを貼られ、魯庵も息子を支持し、四年生の二学期末に「自主退学」する。

そして早稲田中学に転入し、会津八一や小泉清らと出会い、画家への道を歩んで行くのだ。

大正十五(一九二六)年東京美術学校の洋画科を卒業した彼は、同じ年、帝展に「白い上衣の少女」を初出品し初入選したが、資産家ではなかった彼は画業だけに専念することが出来なかった。

翌、昭和二(一九二七)年六月、吉居静 (よしいしず)と結婚、七月に東京佃島 (つくだしま)小学校の図画の代用教員となった。

そして昭和四年、父魯庵が亡くなり、その翌年、魯庵の作品が円本に収録された。

円本が当時の作家たちに多大の印税をもたらしたことは良く知られている。

ある者は外遊し、ある者は家を持った(徳田秋聲 (とくだしゅうせい)は円本の印税によって本郷に手固く学生アパートを建てた)。

徳田秋聲(1872〜1943)

明治〜大正時代の小説家。
尾崎紅葉に師事し、「新世帯」「黴」「あらくれ」などで自然主義文学の代表的作家となる。

魯庵たちの巻は、あとの配本で、つまり早い配本巻よりも部数は少なかったけれど、それでも二千八百円の印税が入った。

その金で内田巌は一年半パリに留学し、アカデミー・ランソンに学び、カミーユ、コローの画法を研究する。

つまり本格的な洋画家内田巌がここに誕生する。

ところで私は内田巌の絵はずっと見たことがなかったと述べた、

けれどその文章は愛読していた。

戦前に出た改造文庫の『魯庵随筆集』上下に巌の「父魯庵を語る」と「父への手記」が収録されていた。それから岩波文庫の『社会百面相』には「非文士の父魯庵」が収録されていた。

どれも、さすがは内田魯庵の息子と言える素晴らしい文章だった(『父内田魯庵』となる一冊分の文章を書き残してほしかった)。

そして平成十六年秋、私は神戸の小磯記念美術館で開かれている「内田巌展」を見に行った。

本音を言えば、それほど期待していなかった。

戦前にフランスに留学した洋画家、コロー風の絵、と言えばだいたいの想像がついた。その種の絵は悪くはないけれど、特別に良いとも思えない。

ただ私は、内田巌の作品が見たかったのだ。

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