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第12回 人物編:「皇帝になろうとした生臭坊主・道鏡の最期」 Page 1

第12回 人物編:
「皇帝になろうとした生臭坊主・道鏡の最期」

『続日本紀』が記録する道鏡の専横

古代史を彩る大悪人と言えば、蘇我入鹿そがのいるか道鏡どうきょうのどちらかだろう。

蘇我入鹿の専横が『日本書紀にほんしょき』のでっち上げであり、むしろ蘇我氏が中央集権国家の建設を目指していたことは、連載中に述べてきた。ならば、もうひとりの大悪人・道鏡も、「本当はよい人」だった可能性はあるのだろうか。

そこでまず、道鏡の生涯を、『続日本紀しょくにほんぎ』の記事を中心にふり返ってみよう。

『続日本紀』宝亀三年(七七二)四月六日の条には、「造薬師寺ぞうやくしじ別当べっとう道鏡どうきょうす」とあり、以下の薨伝こうでん(三位以上の貴族の死後記される追悼文)が続く。ちなみに、ここにある「薬師寺」とは、奈良市ではなく、栃木県下野しもつけ市の薬師寺で、道鏡はこの地に左遷させられていたのだった。それはともかく……。

道鏡は下野国の薬師寺別当で生涯をとじた

道鏡が別当として生涯を閉じた下野国の薬師寺跡

道鏡の俗姓は弓削連ゆげのむらじで、河内かわちの人だ。梵文ぼんぶん(サンスクリット語)に精通し、禅行ぜんぎょうで名高い。だから、内道場(宮中内の道場)に入り、禅師ぜんじとなった。天平てんぴょう宝字ほうじ五年(七六一)に(孝謙こうけん上皇が淳仁じゅんにん天皇とともに)保良宮ぼらのみや(滋賀県大津市国分)に行幸されたとき、看病して以来、寵愛ちょうあいされるようになった(このとき孝謙上皇は四十四才。ちなみに孝謙上皇はこののち重祚ちょうそして称徳しょうとく天皇になる)。廃帝(淳仁天皇)は、ことあるたびに孝謙上皇に諫言かんげんしたが、聞き入れられず両者の関係は悪化した。天皇はすなわち平城ならの別宮に住むようになった(淳仁は中宮院に、孝謙は法華寺)。天平宝字八年(七六四)、大師だいし恵美えみの仲麻呂なかまろ恵美押勝えみのおしかつ)が謀反むほんを起こし誅殺ちゅうさつされ、道鏡は太政大臣だじょうだいじん禅師ぜんじとなった。しばらくすると、道鏡は「法王」となり、鸞輿らんよ(天皇の乗る輿こし)を用いるようになった。衣服も飲食も、供御くご(天皇に供給されるもの)とそっくりだった。大小の政務に関わりをもつようになった。弟の浄人きよひとは、布衣ふい(庶民)から八年の間に、従二位じゅにい大納言だいなごんに駆け上がった(異常な出世)。道鏡の一門から、五位の人(高級官僚)男女あわせて十人も輩出した。時に、大宰主だざいのかむつかさ習宜すげの阿曾麻呂あそまろが、「八幡神の教え」という偽りの託宣たくせんを利用して、道鏡を皇位に就けようとたぶらかした。道鏡はこれを信じ、その気になった。詳しくは、称徳天皇紀に記されている。天子てんし崩御ほうぎょ(称徳天皇の死)ののちも、道鏡は自分の権威を疑わず、密かに僥倖を頼みにして、葬礼のあとも、称徳天皇の山陵を守っていた。朝廷は、先帝の寵愛深かった道鏡の処分に困り、造下野国薬師寺別当に任じ、亡くなると、庶民と同じ待遇で葬った。


ここには、道鏡が保良で孝謙上皇と出会って以来の、道鏡の「専横ぶり」が記録されている。ならば、本当に『続日本紀』の言うとおり、道鏡は専横を極めたのだろうか。

道鏡を天皇に仕立てあげようとした宇佐八幡託宣事件

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