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第11回 出来事編:「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」 Page 2

第11回 出来事編:
「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」

長屋王と同じ運命を予感した左大臣、橘諸兄

天平てんぴょう勝宝しょうほう元年(七四九)、聖武天皇は藤原仲麻呂との戦いに敗れたことを認めるように、光明子こうみょうしとの間の娘・阿倍あべ内親王に禅譲ぜんじょうした。孝謙天皇(のちに重祚ちょうそして称徳天皇)の誕生である。

藤原仲麻呂はここから、藤原氏による独裁体制固めをはじめていく。まず、光明皇太后の身の回りの世話をする役所・皇后こうごう宮職ぐうしき紫微しび中台ちゅうだいに改め、太政官だいじょうかんを兼任させ、「孝謙天皇→太政官」という正式な朝廷組織とは別に、「光明皇太后→紫微中台」を作り上げてしまったのだ。

このやり方は、藤原氏の得意技だった。長屋王が台頭し、右大臣うだいじん左大臣さだいじん に駆け上がり、朝堂のトップに躍り出たとき、参議にすぎなかった藤原房前を律令の規定にない内臣うちつおみにして、実権を握ってしまった図式に似ている。

反藤原派の旗頭になって活躍していた橘諸兄は、この時左大臣で朝堂のトップに立っていたが、次第に力を削がれていくことになる。橘諸兄は、長屋王と同じ運命をたどっているかのように感じていたのではあるまいか。

続日本紀しょくにほんぎ天平てんぴょう宝字ほうじ元年(七五七)六月二十八日条には、興味深い記事が残されている。そこには、次のようにある。

去る天平勝宝七年(七五五)十一月、太上だいじょう天皇(聖武)が病床にあったとき、左大臣橘諸兄に仕えていた資人しじんが、「橘諸兄が酒宴の席上で、無礼な言葉を発し、謀反を企んでいる疑いがある」と告発してきたのだ。ただし、太上天皇は広い心をもってとがめなかった。橘諸兄はこれを知り、次の年に辞職した、というのである。

真相は定かではないが、天平勝宝八年(七五六)二月に橘諸兄が失脚したことは、たしかであり、藤原仲麻呂の思惑どおり、ことは進んでいく。

天平勝宝八年(七五六)五月、反藤原派の心の支えだった聖武上皇が崩御。時代は大きく移り変わっていく。

万葉歌に残された政争の裏側

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