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第10回 出来事編:「藤原系女人の乱――県犬養三千代と光明子」 Page 3

第10回 出来事編:
「藤原系女人の乱――県犬養三千代と光明子」

藤原不比等が期待した県犬養三千代の後宮の人脈

藤原不比等が県犬養三千代に期待したのは、後宮の人脈である。

草壁皇子くさかべのみこ阿閇皇女あへのひめみこ(のちの元明げんめい天皇で持統じとう天皇の妹)の間に生まれたのは軽皇子かるのみこ(のちの文武もんむ天皇)、氷高皇女ひたかのひめみこ(のちの元正げんしょう天皇)、吉備内親王きびのないしんのう長屋王ながやおうの妃)と、錚錚そうそうたる顔ぶれだが、県犬養三千代は氷高皇女の養育に携わったと考えられている。また、阿部皇女自身も、県犬養三千代を乳母めのとのように慕っていたようだ。当然、阿閇皇女とその一家とのつながりは強かった。

文武天皇を即位させ、さらに首皇子(聖武天皇)の即位を夢みた藤原不比等は、後宮の女性たちをコントロールするために、県犬養三千代を必要とし、夫のいない間に、寝取ってしまったのだろう。

目的のためには手段を選ばない藤原不比等のやり方を熟知していた県犬養三千代は、夫や子を守るために、藤原不比等に従った振りをしたと考えられる。

県犬養三千代はのちに元明天皇から「橘」の姓を下賜かしされるが、葛城王が臣籍降下するとき、母の姓を名乗ることを願い出て許されている。こうして橘諸兄が誕生したが、もし仮に、県犬養三千代が夫(橘諸兄の父)を裏切っていたとしたら、橘諸兄は母の姓を継いだだろうか。

やはり県犬養三千代は、夫や子を護るために、やむなく藤原不比等に従ったのだろう。それを知っていたから、橘諸兄は母を許したに違いない。

なぜ県犬養三千代は法隆寺を祀ったのか

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