ホーム 『コトバの家』ねじめ正一 第一回 定住の人・高島茂と、漂流の人・高橋鏡太郎 Page 3

父は「悪いけど、正一出てくれ」という。仕方なく出ていくと、昼なのに、ヨーグルトの腐ったニオイがする。

「お父さん、いるかい」

「いません。出かけています」

鏡太郎さんはどこの家を訪ねていっても居留守を使われているのに慣れていて、すぐに帰らない。

「じゃあ、お父さんが帰ってくるまで家の中で待たせてもらってもいいかな」と言う。私は困った。父が家にいるのに、家の中に入れるわけにはいかないので、

「ぼく、これから遊びにいくんです」と言うと、「正一くん、オレもいっしょにいってもいいかい」という。私はいやだと言えず中庭から外に出ていくと、本当に鏡太郎さんがついてくるのであった。空き地で友達と野球をやるので、「鏡太郎さん、帰ってくれ」とお願いするのだが、いっこうに帰ろうとしない。友達と野球を始めると、鏡太郎さんも一緒に野球がやりたくて入ってくるのだ。

子供の頃、著者が野球をした高円寺の公園。昔は空き地だった。
子供の頃、著者が野球をした高円寺の公園。昔は空き地だった。

鏡太郎さんが「打たせてくれ」と友達のバットを取って、本当に打ち始めるのだが、足がふらふらしているので、バットにボールがかすりもしない。それでもバットを離さずに打とうとしては空振りして、その場にひっくり返るのだ。

私は恥ずかしかった。

日が暮れてきて、友達たちは帰っていくが、鏡太郎さんはまったく帰ろうとしない。

空き地の近くに大谷という大きな屋敷があった。その生け垣の隙間にヤモリがいて、そのヤモリを鏡太郎さんは捕まえ始めた。私はヤモリなんて捕まえたことがなかったので、恐くて見ているだけであった。

鏡太郎さんはヤモリを捕まえポケットに入れてにこにこしていた。

私が家に帰ろうとすると、鏡太郎さんも私の家についてくる。その頃には父はとっくのとうに逃げ出して家にはいない。

「お父さん、いるかい」

「まだ戻ってきていないみたいです」

「そうかあ。正一くん、風呂に入れてくれないかい」

鏡太郎さんはとんでもないことを言い出すが、母は鏡太郎さんが何日も風呂に入っていないのを知っているので、乾物屋の方は住み込みの子たちにまかせて、薪で風呂を沸かし始めた。母は父が鏡太郎さんから逃げているのを知っていて、ちょっと鏡太郎さんに申し訳ない気持ちがあって、風呂に入れてあげるのだ。

鏡太郎さんは気持ちよさそうに風呂に入っている。風呂の外にいる私に鏡太郎さんの鼻歌が聞こえてくる。風呂にゆっくりつかりながら「正一くん」と鏡太郎さんが私を呼ぶ声がする。「何ですか」と聞くと、「お父さんの下着を貸してくれ」と言う。母に言うと、タンスから父の下着を出してきて、これを貸してあげなさいという。風呂から出ると、鏡太郎さんは下着を着替えて、「正一くん」とまた私を呼ぶ。「何ですか」と聞くと、「お父さんの洋服を貸してくれ」と言う。

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