ホーム 『微笑がえし』石黒謙吾 シーン1 食堂の出会い Page 4

市の中心、香林坊からバスで20分。終点にある町には市営住宅が積木を並べたように整然と連なっていた。2階建の木造モルタル造りは、カステラを切ったように細い幅で一軒ごとに区切られている。どの家にも申し訳程度の庭があった。1階に6畳間と流し、トイレ。細い階段を上ると襖で仕切っただけの四畳半が2つ。どこの家もまったく同じ間取りである。この狭い場所で、どの家でも親子4人、5人は当たり前、時には三世代が同居。隣の話は内容がわかる安普請。こんな空間で暮らす人々の逞しさは、東京オリンピック開催間近に湧き、日本中に充ちたエネルギーの後押しがあるからかもしれない。

ここで始まった新婚生活は5年目を迎えていた。狭い庭に稔が植えた無花果の木が大きく育ち、今年もすでに、線香花火の先のような実がいくつも下がっていた。

「しんちゃん、あんま、高いとこ行かんといて」

「なーん、昇らんなんのや」

曲った木の根っこを伝って昇ろうとしている男の子。その様子を見ている22歳の母親は、ビニールサンダルを履いた足を外に出し縁側に腰かけている。3歳ともなるとかなり言葉がしゃべれるようになって、息子とやりとりするのが楽しくてしかたない。しかし、母性の透き通った喜びの隙をついて、女として、人間としての澱んだ感情がちらつく。

別れるとすっと、なんの仕事すればいいげんろなあ。もうバスガイドなんかできなくなっとるしねえ。しんちゃん育てんなんし、お金いるしねえ。

限界に来ていた。稔の朝帰りは頻繁になっている。仕事が終わったら真っ直ぐ帰ってきていたのは結婚して3年間。つつましく一緒に食事して、仲良く子供をあやし、3人で川の字になって寝る。夫婦の幸せ。しかし稔の帰りが遅くなる日がだんだんと増え、最近はついに新聞が配達される頃に玄関が開くことが珍しくない。理由を聞くと無表情で「友達のとこ泊まったんや」としか言わない。問い詰めると、声を荒げて「しつこいなあ、ほんとやっちゅうたらほんとやわいや!」とキレて、恵美子が黙る。毎回この繰り返し。

そして時折、頬に平手打ちが見舞われた。一度、恵美子の母が来ていた時も手を出した。目の前で娘に暴力を振るう婿を見て、女ばかりの家族だった母親は恐怖でしばらく言葉が出なくなった。母親はそれ以来いつも「あんなおっとろしー人のとこおらんといかんがか……」と目に涙を溜めて娘を案じた。

そしてついにその朝。殴られて飛んだ額が畳に擦れ激痛で一瞬目の前が暗む。傷口を押さえて離した中指についた大量の血を見た瞬間、コップの縁から水が溢れるように恵美子の忍耐は決壊した。仁王立ちする夫を見もせず階段を昇ると、ふとんで寝ていた慎吾を胸に抱きかかえた。

「しんちゃん、行くんやぞ!」

シミだらけの木綿のパジャマを着たままの息子と階段を駆け降りる。

「なんじゃくさん!出てけ出てけ!しんぼう、置いてけやおい!」

後ろでがなり続ける男の顔は見たくもない。振り向きもせず慎吾の足にズックを履かせていると、背中を蹴り飛ばされ息が詰まった。息子の顔を胸に抱き寄せ、そのまま手を引いて扉を押し空け外に飛び出た。玄関の牛乳箱に瓶を入れていた牛乳配達の青年が茫然とこちらを見ている。砂利につまずきながら懸命に走った。どうしていいかわからないままついてくる慎吾の手を握りしめて。なぜか涙は出ていなかった。

「しばらくここにおっていいさけ。落ち着いておるまっしね」

駆け込んだ同級生の木造アパートにつくと張りつめていた糸が切れ、幼なじみの温かい言葉で思いだしたように涙が溢れた。

「あんやと。戻るのはもう無理やわ。これからどうすっか考えなんねえ」

気のおけない友人の言葉に遠慮なく甘えて3日目。今は時間だけはたっぷりある。陽の当たらない部屋で昼寝する息子の寝顔を見つめて考えは巡る。離婚はなぜ世間体が悪いのか。子供を育てていくにはいくらかかるのか。中卒の22歳の女がちゃんとお金を稼げる仕事はあるのか。慎吾がいれば何もいらない。でも父親がいない寂しさは自分がよく知っている……。

父親を知らない女と父親を知らない男は惹かれ合った。しかし、父親を知らない女は貧しい母親が苦労して育てた。父親を知らない男は苦労知らずの母親が育てた。その似て非なる境遇が、自分たちと子供の運命を変えていく。

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「微笑がえし」石黒謙吾
シーン1 食堂の出会い

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