ホーム 『江國香織を読む』福田和也 第三回 『「ごっこ」の世界に生きる母と娘』 Page 3

お風呂のあと、パパについて話した。もしもパパがそばにいてくれたら、という話。これは、ママとあたしが二人ともすごく気分のいいときに、好んで話す話だ。もしもパパがそばにいてくれたら、パパがあたしにしてくれるであろうこと。

――キス!

あたしは言った。このことを話すとき、ママが必ず最初にそう言うので、いつごろからか、ママよりはやく、競争みたいにそう言うきまり・・・になっているのだ。

――そうね、キス。

ママはゆっくりくり返す。

――あなたの身体の表面で、パパのキスをのがれられるところはきっとわずかよ。パパはどこにもかしこにもキスをするもの。まぶたにも手首にもみぞおちにも。

あたしはうれしくなって、つい、うふふ、とわらってしまう。

――豆笛もつくってくれる。

それから次の項目に移った。

――腕枕をしてくれる。

これはママ。あたしたちは思いつくままに列挙する。

一緒に散歩をしてくれる。怖い夢を追い払ってくれる。つめたいおいしいカクテルをつくってくれる。かたちのいいおでこや、すばらしいふくらはぎにさわらせてくれる。水泳やテニスを教えてくれる。バッティングセンターにつれていってくれる。抱きしめてくれる。朝起きると、おはよう、と言ってくれる。あたしたちが二人っきりで心細い女たち・・・・・・・・・・・・ではないのだとわからせてくれる。ずっとここにいてくれる。

 

江藤淳は、昭和四十五年に発表した論文、「『ごっこ』の世界が終わったとき」の中で、いわゆる「ごっこ」遊び――「電車ごっこ」であったり、「鬼ごっこ」であったり――について、かく語っている。

この世界は、黙契と共犯の上に成立している世界、あるいは「鬼ごっこするもの、この指とまれ」という呪文によって喚起された世界である。したがってまず黙契をかわすべき仲間というものが必要になる。この仲間は、太郎ちゃんを「鬼」とみなし、ロープを「電車」とみなして、その価値観にコミットしながら集っている。故にこれは一種の共犯関係である。かくして「ごっこ」の世界はきわめて排他的な様相を呈するにいたるが、同時に他人の存在を不可欠の条件としてもいる。なぜならこの仲間は、見られる・・・・ことを絶対に必要としているからである。

仲間内の黙契は、この世界を成立させるための必要条件にすぎない。それを充分に持続させるためには、外部からの視線によって限定され、承認されていることが条件になる。そうであれば黙契は、仲間内のみならず他人とのあいだにも交されていなければならない。他人とはこの場合大人であり、大人は本当の鬼や電車を子供たちの手の届かぬところに置き、しかも太郎ちゃんが「鬼」であり、ロープが「電車」であることを認めてやりつつ、子供たちから一定の距離を保持していなければならないのである。つまり大人たちは距離を保持し、保護を約束してやらなければならない。もし大人がこの契約を無視して、子供の眼の前に本物の鬼や電車を持ち出したら、すべてはぶちこわしになってしまう。

葉子と草子の絆は、こうした「ごっこ」遊びによってもやわれている、と解釈する事も出来るだろう。

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