ホーム 『江國香織を読む』福田和也 第二回 『女流作家の宿命』 Page 2

当時、ボーリングに凝っていた師匠は、沼津での落語会の後、愛車ブルーバードを駆って手頃なボーリング場を探し、勇んでレーンに立つと、十七、八の娘さんがやってきて、何の前置きもなく、かく語ったという。

「落語をやってください」

こう言うんです。

「え?」

「落語をやってください。テレビであんながちゃがちゃしたことやってもらいたくないんです」

って、こう言うんですね。

当時、小三治師匠は、新進落語として、寄席ばかりではなく、テレビのバラエティでも活躍していた。ご自身としては、性にあわないのだけれど、世間の要めに応じるのも、芸人の仕事だろう、それにしても嫌だなぁ…と思っていた時に、ズバリ「あんながちゃがちゃしたことやってもらいたくない」と云われてしまった。

そう云ってくれたのが、その娘さん、つまりは笑子さんで、そのうちに彼女の素性がわかってきて……というのが「笑子の墓」。

『きらきらひかる』の「笑子」という名が、ここから取られているのではないか……と思ってしまうのは、小三治師匠と江國滋は、おんなじ句会――東京やなぎ句会――に属していたからだ。

メンバーは、永六輔、桂米朝、小沢昭一、加藤武という豪華なものなのですが、その、小三治さんの話から、主人公の名前は、選ばれたのではないか……そう考えると、何程かの感興が湧いてくる。

まあ、他愛のない話ではあるのだが。

さて……。

『きらきらひかる』は婚姻の物語ではない。

この点にこそ、江國香織という奇跡の秘密が顕わになっている。

与謝野晶子から、林芙美子、山田詠美、絲山秋子にいたる、「女流」の、つまりは女性が女性であるという事についての、宿命的な昂ぶりと、完全に切断された、無縁の存在として、江國香織は、小説を書き続けているのだ。

たがいの善意(好意?)に基づく打算が、どのような宿命を手繰り寄せてしまうのか、という奇妙な、しかし感動的な「実験」の記録としての小説。

同性愛者である事を世間に感知されたくない医師と、普通の社会生活を送る事がいささか難しいように見受けられる若い――アルコールを過ごしがちの――女性とのカップル。

相互の都合により成立した関係は、その脆弱さにこそ、依存している。

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「江國香織を読む」福田和也
第二回「女流作家の宿命」

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