ホーム 『村上春樹2011』福田和也 第一回 『ダンス・ダンス・ダンス』 Page 4

一片の野心もなければ、一片の希望もなかった。来るものを片っ端からどんどんシステマティックに片付けていくだけのことだ。正直に言ってこれは人生の無駄遣いじゃないかと思うこともないではなかった。でもパルプとインクがこれだけ無駄遣いされているのだから、僕の人生が無駄遣いされたとしても文句を言える筋合いではないだろう、というのが僕の到達した結論だった。我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。

頼まれた仕事にたいして、何の異議もはさまず、無駄だと知りながらベストを尽くす。それは、一見玄人 (くろうと)らしい姿勢とも見える。けれども、多少の自負をもつ職業的な物書きであれば、どのような仕事にも「意義」を見いだす努力をするだろうし、実際、見いだすだろう。その悪戦苦闘の末に腕を振るう甲斐のある場所へ辿りつく事を信じているだろう。この、焦げつくような傲慢さは、一体、何のために養成されたのだろうか。

「僕」の仕事に対する姿勢には、そのような希望は、祈りは一切ない。クールでドライで虚無的な姿勢に終始している。

自らが演じる役柄に一切の意義を見いだせない、見いだそうとしなくなっている俳優と、「僕」は同種の人間であり、相似形なのだ。五反田君は「僕」の代りに、娼婦を絞殺したのだ、間違いなく。

その点からすれば、『ダンス・ダンス・ダンス』は、『ロング・グッドバイ』から遥か遠くまで歩み進んでしまった作品だ。『ダンス』においては、フィリップ・マーロウが、ぎりぎりの処で把持していた道義すら手放されている。告発は少女に委ねられ、犯人(とおぼしき)、親友は自殺してしまう。

メイの死が僕にもたらしたものは古い夢の死と、その喪失感だった。ディック・ノースの死は僕にある種の諦めをもたらした。しかし五反田君の死がもたらしたのは出口のない鉛の箱のような絶望だった。五反田君の死には救いというものがなかった。(中略)しばらくの間、週刊誌やTVやスポーツ新聞が彼の死を食い荒らしていた。彼らは甲虫みたいに腐肉をとてもうまそうに囓っていた。そんな見出しを見ているだけで僕は吐き気がした。

語り手は絶望し、呪詛 (じゅそ) する。しかし彼が--世間に露見しなかったとしても--、殺人を犯しているのだとすれば、その程度で済んでよかったのではないか。

作家は、ドルフィン・ホテルの闇の如き世界のズレを作品の中核に置く。そのズレは、視界の、認識のズレに止まらず、道義の、正邪の境界にもブレを産み出す。小説は、聖典ではなく、端的な審判が下されるべき場ではない。いかなる悪をも、小説は許容する事が出来るだろう。ただ、問うべきは、その悪を語り手が背負っていない事だ。犯人は五反田君で、告発者はユキなのだ。

私が『ダンス・ダンス・ダンス』の続編を待ちつづけているのは、このインモラルな、道義無き世界に、このズレとブレに作家がどのように決着を、個人的に審判を与えるのか、見ないでは、確認しないではすまないからだ。

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