ホーム 『父系図』坪内祐三 第二回 内田魯庵・内田巌 Page 8

そして私は、とても感動した。前年に湯島のギャラリーで見たとき以上に感動した。

たしかにコロー風の絵もあった。

しかし私が感動したのは肖像画だ。

しかもただの(正面からの)肖像画ばかりではなく、横顔の肖像画が何点もあった。

横顔の、にょきっと向こうを見つめている肖像画を私はあまり見たことがない(内田巌は誰かから学んだのだろうか、それともこれは彼のオリジナルなのだろうか)。

それが何点も(十点近く)展示されていたのだ。

例えば「谷崎潤一郎肖像」(昭和二十一年)の生々しい迫力はどうだろう。戦後すぐの時であるのに谷崎はとても動物的でエネルギッシュだ。そんな谷崎潤一郎のリアリティーを、この絵は、写真以上に伝えてくれる。

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「谷崎潤一郎肖像」 写真/芦屋谷崎潤一郎記念館

私がオッと思ったのは、その種の横顔肖像画の第一号(?)が「會津八一肖像画」(昭和九年)だったことだ。やはり會津は内田巌にとって特別な存在だったのだろうか。普通の恩師だったら普通に正面から描けば良いのだから。

そして私が一番気に入った肖像画は「風」(昭和二十一年)と「頭巾のミチコ」(昭和二十六年頃)だ。

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「風」内田巌
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「頭巾のミチコ」内田巌

どちらも巌の次女・路子をモデルに描いた作品だ。

魯庵の存命中(昭和三年)に生まれた巌の長女を、モナリザにちなんで魯庵が莉莎子 (りさこ)と命名したが、この莉莎子がのちに「おおきなかぶ」の翻訳でも知られる児童文学者となる。

「父魯庵を語る」で内田巌は、昭和八年九月に次女が生まれた時、友人の中村研一に名前を相談したと述べ、話題をこう続けている。

バイブルの中に何かないかと研一氏が『ルカ伝』を読んで呉れると「今の世は姦悪なる世なれば (しるし)を求む」と云ふ句が出た。非常時にふさはしい名前だと決めようとしたが、 (テウ)子が気にいらなかつた。如是閑先生に電話で伺ひを立てたが、矢張り「テウ」と呼ぶより外なかつた。家への帰途、啓明の啓をとつて啓子としようと思つた。

帰つて来たら、母や女房が余り名前負けすると云った。僕も僕自身の名前負けをしみじみ感じてゐるので又転向して、遂々「路子」にしてしまった。

その内田路子は昭和三十三年六月、あの堀内誠一 (ほりうちせいいち)と結婚して堀内路子となる。

堀内誠一(1932〜1987年)

昭和時代のグラフィックデザイナー・絵本作家。
氏のデザインしたマガジンハウスの雑誌『アンアン』『ポパイ』『ブルータス』『オリーブ』は現在もそのロゴが使用されている。

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「父系図」坪内祐三
第二回 内田魯庵・内田巌

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