ホーム 『父系図』坪内祐三 第二回 内田魯庵・内田巌 Page 6

時代は明治二十年代初頭。前回も述べたように、文学の世界が大きく変わろうとしていた頃、すなわち新しい才能が次々登場していった時だ。

中でもそのトップを切ったのが作品集『夏木立』(「武蔵野」などを収録)の山田美妙だった。

魯庵は「武蔵野」の読後感を手紙に書いて未知(のちに薄い面識があったことを知る)の美妙に送った。

魯庵の批評眼に感銘を受けた美妙は、その手紙(私信)を、魯庵に無断で雑誌『女学雑誌』に載せた。

それが明治二十一年秋のことだった。

それから、次第に文壇に知己も出来、愈々文壇に接近するやうになつて来た。と云ふのは、その年の年末になつてから、女学雑誌から礼を持つて来たことだ。私は元々原稿料なぞを貰ふつもりで書いたわけではなく、偶然自分の手紙が公表された所から、日記の中から抜書きして埋め草にしたまでゝある。無論それが金になろうとは夢にも思つて居なかつたところへ、意外にも礼として而も余り少なくない原稿料をくれた。

そこで、私は之れまで一方で商人として生活して――商人と云つても自ら品物を売買するのではなく、商会員のやうなもの――一方で文学を遣つて見ようと思つても居たぐらゐで、文学で飯が食へやうなどゝは想ひ及ばなかつたのである。ところがそれが金になったのだから全く驚いた。

しかしとは言え、当時の文学の中心にあった美妙や尾崎紅葉ら硯友社同人たちの戯作者的あり方には、半ば賛同しつつ、違和感もおぼえていた(このあたりのセンス――滑稽に対して強い感受性を持ちながらその一方できわめて真面目であるのは魯庵と巌の内田父子に共通する)。

 そんな時、明治二十二年夏、彼はドストエフスキーの『罪と罰』に出会う。

『罪と罰』の読後感を共有した二葉亭四迷 (ふたばていしめい)との思い出を語った「二葉亭余談」で魯庵はこう述べている。

二葉亭四迷(1864〜1909)

明治時代の小説家・翻訳家。
明治20年言文一致体の「浮雲」を発表する。東京外語学校教授を経て、37年大阪朝日新聞に入社し、新聞小説「其面影」を書く。
写真/国会図書館HP

二葉亭四迷

然るに『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野 (こうや)に落雷に会うて眼眩 (くら)めき耳 ()いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。こういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を ()いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。その時の私の心持は『罪と罰』を措いて直ちにドストエフスキーの偉大なる霊と相抱擁するような感に ()たされた。

それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった。それまでは文学を軽視し、内心「時間潰し (キルタイム)」に過ぎない遊戯と思いながら面白半分の応援隊となっていたが、それ以来かくの如き態度は厳粛な文学に対する冒涜 (ぼうとく)であると思い、同時に私のような貧しい思想と稀薄 (きはく)な信念のものが遊戯的に文学を語るを空恐ろしく思った。

 そして魯庵は、ドストエフスキーの『罪と罰』の巻之一と巻之二の翻訳を刊行したのち(後半に当たる巻之三と巻之四は結局未完に終わった)、明治二十七年四月、三文字屋金平 (さんもんじやきんぴら)という筆名で劇評『文学者となる法』を書き下す。

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