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滝沢馬琴 (たきざわばきん)の『八犬伝 (はっけんでん)』を始めとして小説を中心に様々な本を読んだ(『思い出す人々』で彼は、「十四歳から十七、八歳までの貸本屋学問に最も夢中であった頃には少なくも三遍位は通して読んだので、その頃は『八犬伝』のドコカが三冊や四冊は欠かさず座右にあった」と述べているし、また、「普通の貸本屋本は大抵読尽し」たとも述べている)。

滝沢馬琴(1767〜1848)

江戸時代後期の戯作者。
山東京伝門下に入り、京伝の代作や黄表紙を執筆。文化11年より28年間かけて大作「南総里見八犬伝」完成させる。

魯庵没後の本のタイトルではないが、まさに『読書放浪』だった。

そしてこの「読書放浪」と対照的だったのが、「学校放浪」だった。

その思い出を語った中篇エッセイ「父魯庵を語る」の第十一章「父の学校放浪癖」で内田巌はこう書いている。

読書放浪が父の智的生活の核心であるならば、この学校放浪も父の教養に対する方法論として成立するであろう。

ではその放浪した、学籍を挙げて見よう。順序は不同だが、中村正直 (なかむらまさなお)先生の同人社、立教中学および大学、海城、攻玉社 (こうぎょくしゃ)、語学校、東京商業、予備門(文科)、早稲田の英文科皆中途退学で一つとして纏ってゐない。一番長かつたのは早稲田の英文科で、卒業前に免状なぞ要らぬと云つて止めたのださうである。

中村正直(1832〜1891)

幕末〜明治時代の教育者・啓蒙思想家。
明治4年、Sスマイルズの「西国立志編」、5年にJSミルの「自由之理」を翻訳し、新思想を紹介する。
写真/国会図書館HP

中村正直

それらの学校に籍は置いてあったものの、「大半は図書館通いで気儘に好きな本を読んで」いて、大学予備門(東京大学前身)では、「時間中に小説ばかり読んで、注意を喰ったのが止めたくなった原因」だったという。のちに巌に魯庵は、自分は「大人しい不良少年」だったと語った。

しかし、この「学校放浪」の中で魯庵は、確かな語学力(英語読解力)を身につけた(明治二十年の東京専門学校〔早稲田大学〕の英語の成績表が残されていた。魯庵は、例えば、書取と作文が九十五点で会話に至っては百点である)。

文学自伝的エッセイ「予が文学者となりし径踏」によれば、日本の本を読み尽してしまった魯庵が初めて(十六、七歳の時に)読んだ外国の本は『ガリバー旅行記』で、「それを読んだ時には、全くこんな面白い本が世の中にあるものかと思つて驚嘆した」。そして外国の本も乱読した。しかし彼は「文学者になる為に本を読んだ訳ではなく、全く興味一遍で読んだのである」

元々私は商人になるつもりで、その頃の風采なども、学生としてよりは寧ろ商人に近い方で、縞の着物に縞の羽織、角帯に前掛けと云ふ扮装で、飛白 (かすり)の羽織などは着たことがなかつた。語学なども文学を遣る為めに勉強したではなく、全く商人となる為めにやつたのである。

そして、私はその時代から独立せねばならぬ境遇であつたので、親から学資の出て居る人々のやうに、決つた学校に入つて、その方面の勉強を専心すると云ふことが出来なかつた。で、或る商会のやうなところに出て小月給を取つてそれを以て生活し、一方商人となる可き修養も積みそして好きな本も読んで居たのである。

(中略)

私は一方立派な商人になつて、その方で生活し、その傍ら文学――と云つても純文学ではない、一種の歴史、先づ思想史のやうなものを研究して見ようと云ふつもりであつたのだ。

ところが、と魯庵は言葉を続ける。「その考へががらりと変つて、思はずも私が文壇の近付きになるやうな機会に出会したのである

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