ホーム 『父系図』坪内祐三 第二回 内田魯庵・内田巌 Page 4

少し文学史的知識がつくと、いや明治期に、その先駆として石橋忍月 (いしばしにんげつ)山本健吉 (やまもとけんきち)の父親)がいたことを知る。

石橋忍月(1865〜1926)

明治時代の文芸評論家・小説家。
東京予備門在学中からドイツ文学の知識をもとに坪内逍遥、二葉亭四迷らの作品を評論。後に弁護士になり、判事も務めた。

山本健吉(1907〜1988)

昭和時代の文芸評論家。
石橋忍月の子。折口信夫に師事。「古典と現代文学」などで個性と伝統にせまる独自の批評を確立した。

だが実は、『内田魯庵集』に収められた「山田美妙 (やまだびみょう)大人の小説」(明治二十一年)、「紅葉山人 (こうようさんじん)の『色懺悔 (いろざんげ)』」(明治二十二年)、「露伴子 (ろはんし)の『風流仏 (ふうりゅうぶつ)』」(明治二十二年)――初出は三篇共に雑誌『女学雑誌』に目を通せば内田魯庵こそが近代日本最初の批評家であることが良くわかる(それなのに未だに「小林秀雄が最初の」などと言っている人はかなり無知だ)。

山田美妙(1868〜1910)

明治時代の小説家・詩人。
尾崎紅葉らと硯友社を起こす。言文一致体による創作を試み、「武蔵野」「夏木立」などを発表する。

それから同じく『内田魯庵集』に収録されている中篇小説『くれの廿八 (にじゅうはち)日』(明治三十一年)はなかなかの名作だし、驚くべきは連作短篇小説集『社会百面相』だ(岩波文庫にも収められ十年前に復刊されているから手軽に読むことが出来るだろう)。

これは博文館から出ていた日本初の週刊誌『雑誌『太平洋』』(『サンデー毎日』や『アサヒグラフ』を日本初の週刊誌などと言う人がいるがそれより二十年以上前に創刊されていた)の明治三十四年一月七日号から同年十二月二日号までほぼ毎週のように掲載された連作小説集だが、その各篇のタイトルが凄い。

「学生」「貧書生」「労働問題」「官吏」「閨閥」「ハイカラ紳士」「代議士」「増税」「台湾土産」「時代精神」「鉄道国有」「投機」などと続いていく。

つまり、トム・ウルフ(もちろん古い方ではなく新しい方だ)もまっ青なニュージャーナリズム的小説なのだ。それを週刊誌で連載したのだ。

明治三十四年とは、それまで小説世界の中心にいた「金色夜叉 (こんじきやしゃ)」の尾崎紅葉が死に至る病に苦しみ、その後に自然主義の旗手となる田山花袋が『重右衛門の最後』を執筆中の、そういう年だ。

しかし魯庵はそういう文学世界の動向とは無関係に、つまり小説家としての野心や自負もないまま、金銭のために、週刊誌に『社会百面相』という五十年いや百年近く早過ぎた名作を書き継ぎ、文学史からは、小説家として正当な評価を受けていない。

今私は「小説家として野心や自負もないまま」と書いたが、『女学雑誌』に次々と文章を発表していった時も彼は「批評家としての野心や自負」がなかっただろうし、ドストエフスキーの『罪と罰』を本邦初訳(明治二十五年)した時も「翻訳家としての野心や自負」もなかっただろう(もちろんそれはロシア語ではなく英語版からの重訳であったが明治期の翻訳にあってはそれはごく当り前のことだった)。

『女学雑誌』

明治18 (1885) 年7月から明治37 (1904) 年2月まで刊行された、日本最初の本格的女性雑誌。

『女学雑誌』

なぜ彼がそのような人物であったのか、その生涯をここで振り返ってみたい。

内田魯庵、本名内田貢太郎 (こうたろう)(のち (みつぎ)と改名)は慶応四(一八六八)年四月、江戸下谷車坂六軒町 (したやくるまざかろっけんちょう)(現在の東上野三丁目十七番地付近)に生まれた。

この年、江戸幕府が倒れ、九日に明治と改元されるわけだが、この前年すなわち慶応三年生まれの文学者に夏目漱石、正岡子規 (まさおかしき)尾崎紅葉、幸田露伴がいる。魯庵はその錚々たる文学者たちと同世代だった。

正岡子規(1867〜1902)

明治時代の俳人・歌人。
明治25年日本新聞社に入社し、紙上で俳句の革新運動を展開する。雑誌『ホトトギス』に力をそそぎ、写生俳句・写生文を提唱した。
写真/国会図書館HP

正岡子規

尾崎紅葉(1868〜1903)

明治時代の小説家。
山田美妙らと硯友社を創立し、「我楽多文庫」を創刊する。のち読売新聞に入り、言文一致体の「多情多恨」「金色夜叉」を発表して人気作家となる。

江戸から明治への大変化の時期に生まれた彼らは、その出身地や境遇によって、その後の人生が決定される。

魯庵の父・鉦太郎 (しょうたろう)は江戸幕府の御家人で、維新後は東京府に仕官したが、明治十年代には没落し、しかも明治五年、魯庵の実母・ (りゅう)(二十八歳で亡くなったこの母のことを魯庵はとても愛していた)を失なってのち放蕩生活を繰り返し、七人もの後妻を取り換えた。

しかもそのいずれの人たちとも魯庵は折り合いが悪かった。

その分、魯庵少年は読書へと避難した。

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