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そんなある日、当時私が住んでいた経堂の古本屋の棚を眺めていたら、昭和三十年代に筑摩書房から刊行された現代日本文学全集の一冊、タイトルはズバリ『文学的回想集』を見つけた。

その手の文学全集の端本は当時から古書価格が安く、百円均一とは言わないまでも二百円や三百円で入手出来た。

ところがその『文学的回想集』は千円以上(たしか千五百円ぐらい)した。

しかしその『文学的回想集』はずっと私が読みたいと思っていた田山花袋 (たやまかたい)の『東京の三十年』が、「抄」ではあったものの、収録されていたから迷わず購入した。

その『文学的回想集』に、『思い出す人々』の「抄」も収録されていたのだが、それは () (どく)だった。

その『思い出す人々』(『思ひ出す人々』)を私が通読したのは、時代が昭和から平成に代る頃、つまり山口昌男さんと一緒に足繁く古書店や古書展に通い、明治大正の面白人の話を毎日のように長電話するようになった頃だ。

私が読んだテキストは筑摩書房の『明治文学全集』の第九十八巻『明治文学回顧録集(一)』に収められたバージョンで(奥付けを見ると昭和五十五年三月三十日初版第一刷発行とあって丁度私が先に触れた『文学的回想集』を古本屋で入手したのと相前後する頃だが、この本を新刊本屋で目にした記憶はない)。『新編 思い出す人々』(紅野敏郎編)が岩波文庫で刊行された際(一九九四年二月)には確かサンケイ新聞で書評し、以後この一冊は私が明治文化を学ぶバイブル的書物となった。

さて、高校生の私が何故、内田巌のことを知ったかである。

一九七四年四月、私は、私立早稲田高校に入学した。

当時の早稲田高校は一流の進学校ではないものの、歴史は古く、OBには様々な人がいた(例えばサトウハチロー古川ロッパ、と言うと片寄りがあるが、永六輔に山本晋也に梅宮辰夫に川崎徹と続けたらさらに片寄ってしまう)。

サトウハチロー(1903〜1973)

大正〜昭和時代の詩人。
佐藤紅緑の長男。西条八十に学ぶ。「小さい秋見つけた」「りんごの唄」の作詞で知られる。

古川ロッパ(1903〜1961)

昭和時代の喜劇俳優。 加藤照麿の六男。昭和10年東宝傘下に入り、映画舞台で活躍し、榎本健一と並んで人気者となった。

その早稲田高校(旧制早稲田中学)で特別の存在として尊敬を受けていた教師(元教師)が会津八一 (あいづやいち)増子喜一郎 (ましこきいちろう)だった。

会津八一(1881〜1956)

大正〜昭和時代の歌人・美術家・書家。
東洋美術史を研究し、母校早稲田大学の教鞭をとる。独自の風格を持つ書で知られる。

増子喜一郎(1865〜1924)

明治〜大正時代の教育者。
早稲田中学創立の際の事務を務め、幹事となる。

だから当時(高校時代)の私にとって会津八一と増子喜一郎は同格の先人であったが、早稲田高校を卒業したのち、会津八一が早高OBのみならず誰もが知る偉大な文化人であることを知った。

会津八一が教頭だった明治大正時代の早稲田中学で会津はまた美術部の顧問を勤め、その元から何人もの優秀な画家たちが育った。

例えば萬鉄五郎 (よろずてつごろう)(高校二年の時の関西中国地方を修学旅行する時私たちは倉敷美術館で萬鉄五郎の絵をよく見てくることという指導を受けた)、中村彝 (なかむらつね)曾宮一念 (そみやいちねん)鶴田吾郎 (つるたごろう)小泉清 (こいずみきよし)(小泉八雲の遺児)、そして内田巌。

萬鉄五郎(1885〜1927)

明治〜大正時代の洋画家。
日本のフォービズムの先駆的作品となる「裸体美人」を描き話題を呼ぶ。
写真/「いわての文化情報大辞典」HP

萬鉄五郎

何故そんなことを私が知ったのかと言えば、私が高校二年になった昭和五十(一九七五)年、早稲田高校(早稲田中学)は創立八十周年を迎え、それに合わせて『早稲田中学八十年史』という二百頁を越える校史が刊行され、それを通読していた時(国語の授業は苦が手だったが、その種の史書を読むのは当時から大好きだったのだ)、会津八一が顧問時代の美術部の記述にたくさんの頁が当てられていたからだ。

だから内田巌の名前を知ったのだ(逆に言えば、私にとって内田巌は、まだその作品を一点も見る前から、萬鉄五郎や中村彝らと並ぶ洋画家だったのだ)。

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