ホーム 『父系図』坪内祐三 第一回 淡島椿岳・淡島寒月 Page 6

淡島椿岳は明治二十二年九月二十一日に亡くなった。息を引き取る寸前に呵々大笑 (かかたいしょう)して口ずさんだ辞世の句は、「今まではさまざまに事してみたが 死んでみるのは之が初めて」というものだった。

この明治二十二年九月という時は、明治文学史的に(いや近代日本文学史的に)とても重要な意味を持つ時期だった。

二葉亭四迷 (ふたばていしめい)山田美妙 (やまだびみょう)らのいわゆる言文一致体の小説が登場したのはその二年前、明治二十年のことだ。

だがそれは早過ぎる試みであり、近代小説としてスタイルは確立出来なかった。

むしろ、日本の小説の近代化に一歩足を踏み出したのは雅俗混淆体(あるいは折衷体)と呼ばれる文体(地の文が従来の和文で 台詞 (せりふ)の部分が言文一致体的な文体)だった。

その文体を生み出したのは幸田露伴 (こうだろはん)尾崎紅葉 (おざきこうよう)という若き(二十代初めの)小説家だった。

幸田露伴(1867〜1947)

明治〜昭和時代の小説家。明治25年の「五重の塔」で尾崎紅葉とならぶ文名を得る。のちに史伝や随筆、考証に力を入れる。

幸田露伴

尾崎紅葉(1868〜1903)

明治時代の小説家。山田美妙らと硯友社を創立し、「我楽多文庫」を創刊する。のち読売新聞に入り、言文一致体の「多情多恨」「金色夜叉」を発表して人気作家となる。

写真/国会図書館HP

尾崎紅葉

尾崎紅葉は明治二十二年四月、『新著百種』という書き下ろしの小説シリーズで『二人比丘尼色懺悔 (ふたりびくにいろざんげ)』を発表する。そして幸田露伴は同年九月、同じシリーズで『風流仏』を発表する。

雅俗混淆体は別名「西鶴調雅俗混淆体」とも呼ばれる。

つまり井原西鶴 (いはらさいかく)に学び、その影響を受けた文体だ。

井原西鶴(1642〜1693)

江戸時代前期の俳人・浮世草子作者。天和2年に刊行された「好色一代男」が浮世草子のさきがけとなる。「日本永代蔵」「世間胸算用」などの雅俗折衷文の作品で文学史上に一時期を画する。

今でこそ井原西鶴は江戸時代を代表する大作家として知られるが、江戸の終わりから明治の初めにかけては忘れられた作家だった。

その西鶴を「発見」し再評価したのが淡島椿岳の息子、寒月だった。

西鶴熱にかかった淡島寒月は、その熱を親友である幸田露伴(二人は湯島聖堂の図書館で知り合った)にうつす。さらに露伴を通じて紅葉も、寒月の持っていた西鶴の古本を借りに来る。その結果露伴と紅葉は小説家としての文体をつかむのである。つまり日本近代文学発祥の影の貢献者が淡島寒月だった。

それでは何故寒月が井原西鶴を発見出来たのだろうか。

先にも述べたように、寒月の父、椿岳は、明治維新と共に馬喰町から浅草に移り住んだ。

その時寒月は横浜に住む兄の元に身を寄せた(ただし馬喰町の家は処分せず、その家にも戻って暮らしていたようだ)。

当時、明治初年の横浜は東京以上にハイカラだった。異国のようだった。

『梵雲庵雑話』で彼はこう述べている。

姿見町の兄の家で暫くいる間に毎日毎日見ている異人が綺麗に見えて、私は早速断髪してしまった。そしてどうかして髪を紅く、眼の色を (あお)くする法はないものかと考えたものです。家へ帰ってから早速父の家の柱を削って、ペイント塗りにし、カーテンを下げ、ベッドに寝たら、バタやコーヒーなどを口にし、一般に漢字を習っていた時代なのに私は英語を習いました。この時分の西洋崇拝は非常なもので、少しでも西洋臭のあるものなれば愛玩しました。

「この時分の西洋崇拝は非常なもの」だったと寒月は言う。西洋に行きたいと本気で思った。

しかしその先の省察が寒月ならではだ。

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著者所蔵の淡島寒月 著・画『おもちゃ百種』より
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著者所蔵の淡島寒月 著・画『おもちゃ百種』より

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