ホーム 『父系図』坪内祐三 第一回 淡島椿岳・淡島寒月 Page 5

幼少時から椿岳は画才があったというが、正式に画を習いはじめたのは淡島屋の養子になってからのちだった。

円山応挙 (まるやまおうきょ)の流れをくむ日本画家、大西椿年 (おおにしちんねん)に弟子入りした。

大西椿年(1792〜1851)

江戸時代後期の画家。渡辺南岳にまなび、のち谷文晁の影響を受けて山水・人物・花鳥風月を描いた。代表作に、東京浅草寺の「神馬図」がある。

ただしその画風を好んでというわけではなく、椿年の蔵前にある画塾が椿岳の住む馬喰町の家から近かったゆえだろうと内田魯庵は推測している。

しかも新しもの好きだった彼は水彩だけでなく油画すなわち洋画も学び、イギリス人画家ワーグマン高橋由一 (たかはしゆいち)五姓田義松 (ごせだよしまつ)小林清親 (こばやしきよちか)などの師匠)とも親しく交わった。つまり一つの流派にとらわれなかった。彼が画を学んだのはその絵を売るためではなかった。だから椿岳はいわゆる書画会というものを一回も開かなかった。

ワーグマン Charles Wirgman (1832〜1891)

イギリスの画家・新聞記者。1861年来日。小沢カネと結婚して横浜に住む。「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の特派員として活躍。風俗風刺漫画誌「ジャパン・バンチ」を発行する。

というは市井町人の似而非 (えせ)風流の売名を (いさぎよ) しとしない椿岳の見識であろう。富有な旦那の 冥利 (みょうり)として他人の書画会のためには千円からの金を棄てても自分は乞丐 (こじき) 画師の仲間となるのを甘じなかったのであろう。

この寛闊な気象は富有な旦那の時代が去って浅草生活をするようになってからも ()せないで、画はやはり風流として楽しんでいた、画を売って糊口する考は少しもなかった。椿岳の個性を発輝した泥絵 (どろえ)の如きは売るための画としてはとても考え及ばないものである。

『思い出す人々』

淡島椿岳 画「歌舞伎十八番」のうち「景清」

泥絵 (どろえ)とはまるでアメリカの現代画家ジャクソン・ポロックの砂絵を思いおこしそうな呼び名だが、「椿岳の泥絵というは絵馬や一文 (いちもん)人形を彩色するするに用ゆる下等絵具の紅殻 (べんがら)黄土 (おうど) (たん)群青 (ぐんじょう)胡粉 (ごふん)緑青 (ろくしょう) 等に少量の墨を交ぜて描いた画である。そればかりでなく 泥面子 (どろめんこ)古煉瓦 (ふるれんが)の破片を砕いて溶かして絵具とし、枯木の枝を折って筆とした事もあった(『思い出す人々』)。

淡島椿岳 画「歌舞伎十八番」のうち「景清」

淡島椿岳 画「歌舞伎十八番」のうち「景清」

ジャクソン・ポロック Jakson Pollock (1912〜1956)

アメリカの画家。画布を床に敷き、缶に入った絵具を上からたらすドリッピングという技法をあみだす。

その泥画の具体を語っている人がいる。田口米舫である(誰だろう――小説家、 高井有一 ( たかいゆういち ) の父である画家 田口省吾 ( たぐちせいご ) と関係ある画家だろうか?)。

雑誌『書斎』大正十五年七月号に載った「淡島椿岳」で彼はこんなことを語っている。

彼が淡島椿岳を知ったのは十八の春だった。

その前年から脳をわずらい、医者の勧めもあって学校を休み、ぶらぶらと静養していた。

彼の一番の楽しみは池の中を泳ぐ魚を見ることだった。

その日も浅草観音堂の横、淡島堂のほとりで池の魚を見ていたら、淡島堂の中からじっと彼のことを眺めている人がいた。

青年に、その人は、「坊ちゃん坊ちゃん」と声をかけ、続けて、「絵が好きか」と尋ね、「まあ入れ」と言って、三尺の戸を開けてくれた。

青年は「づかづかと入った」

そして改めて、『絵は好きか』と尋ねた。青年は「絵具は何を使っているのですか」と聞いた。「すると机の上にある絵具を見せてくれたが、それは手製の絵具で、これは煉瓦の粉、これは青硝子 (あおガラス)の粉だと云ふ。 (しか)しその机上には古瓦の硯があった、これを今考えて見れば、羅生門 (らしょうもん)の瓦でなかったかと思ふ、殆ど無疵であったから珍中の珍だ、筆なども昨夜食ったそば屋の箸の先を噛み砕いたやうなものであった」

青年が絵が好きであるとわかった椿岳は、彼に、この中の好きな一枚を選びなさい、あげるから、と言った。しかし青年は、「和尚さんが上手になれば……」と言葉をにごしたら、椿岳は苦笑した。

それからずいぶんと歳月が経ち、その時の青年。田口米舫は、こう言う。「私は日本人が雲丹や元信筆と云って騒ぐ、其の心持ちが既に私には判らない」、「金を出して買ふとすれば、椿岳あたりの絵であろう。我々仲間の油絵画家があれを真似てゐるが到底その敵ではない」と。

淡島椿岳の絵の最大のコレクターは銀座の天ぷら屋、天金(国文学者、池田彌三郎 (いけだやさぶろう)の実家)の主人だった。

しかしそのコレクションは大正十二年の関東大震災で 烏有 ( うゆう ) に帰した。

Highslide JS
著者所蔵の淡島寒月 著・画『おもちゃ百種』より

前のページ

次のページ

「父系図」坪内祐三
第一回 淡島椿岳・淡島寒月

目次  1   2   3   4   5   6   7   8