ホーム 『父系図』坪内祐三 第一回 淡島椿岳・淡島寒月 Page 4

椿岳は四十代半ばで明治維新を迎え、当時の四十代は老人と言ってよい年齢だが、そのフットワークは軽い。

淡島屋を人に譲った椿岳は、馬喰町から (ひと)り浅草へと移り住む。

椿岳の浅草生活は維新後から明治十二、三年頃までであった。この時代が椿岳の最も奇を吐いた盛りであった。

伊藤八兵衛と手を分ったのは維新早々であったが、その頃は伊藤もまだ盛んであったから椿岳の財嚢もまたかなり豊からしかった。浅草の伝法院 (でんぽういん)へ度々融通したのが縁となって、その頃の伝法院の住職唯我教信と (ねんご) ろにした。この教信は好事の癖ある風流人であったから、椿岳と意気投合して隔てぬ中の友となり、日夕往来して 数寄 (すき)の遊びを (とも)にした。

『思い出す人々』

明治維新によって江戸は、いや東京は大きく変った。その中で明治十年代まで江戸的雰囲気を残していたのは浅草だった。つまり浅草はアジールだった。

その中心にいたのが淡島椿岳だった。

江戸的、と述べたが、それは単に「古い日本」を意味しない。

江戸っ子は流行りもの好きのハイカラでもある。ヤボなハイカラではなくイキなハイカラだ。内田魯庵は淡島椿岳のことを「過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド」と呼んだが、椿岳はまさに和と洋のハイブリッドだった。そしてその能力は明治初期の浅草で発揮された。椿岳の息子淡島寒月は『梵雲庵雑話』(かつては稀覯本 (きこうぼん)だったこの随筆集も一九九九年に岩波文庫に収められ手軽に読めるようになった)でこう書いている。

『梵雲庵雑話』(ぼんうんあんざつわ)岩波文庫

『梵雲庵雑話』岩波文庫

僕の子供の頃の浅草の奥山の有様を考えると、暫くの間に変ったものです。奥山は僕の父椿岳さんが開いたのですが、こんな事がありましたっけ。確かチャリネの前かスリエという曲馬が――明治五年でしたか――興行された時に、何でもジョーワニという大砲を (かつ)いで、空砲を打つという曲芸がありまして、その時空鉄砲の音に驚かされて、奥山の鳩が一羽もいなくなった事がありました。奥山見世物の開山は椿岳で、明治四、五年の頃、伝法院の庭で、土州山内容堂 (どしゅうやまうちようどう)公の持っていられた眼鏡で、普仏戦争の五十枚続きの油画を覗かしたのでした。看板は油絵で椿岳が描いたのでして、確かその内三枚ばかり、今でも下岡蓮杖 (しもおかれんじょう)さんが持っています。

浅草の奥山そして六区はこののち昭和三十年代ぐらいまで東京の興行や見世物の中心地として賑わいを見せていく。それを「開山」したのが淡島椿岳だった(寒月は続けて「父はああいう奇人で、儲ける考えもなかったのですが、この興行が当時のことですから、大評判で三千円という利益があった」と述べている)。

私はここ数年、月に二、三度のペースで浅草六区の映画館に東映の旧作を見に行く。その行き帰りの六区で私は、何とも言えない解放感、アジール感を味わう。それを生み出した開祖が椿岳だったのだ。

淡島椿岳が浅草に住んでいたのは明治十二、三年までだが、途中で、同じ浅草の別の場所へと移動する。

明治七、八年頃、浅草の寺内が公園となって改修された。椿岳の (すま)っていた伝法院の隣地は取上げられて代地を下附されたが、代地が気に入らなくて俺のいる所がなくなってしまったと苦情をいった。伝法院の唯我教信が調戯 (からかい)半分に「淡島椿岳だから (いつ)そ淡島堂に住ったらどうだ?」というと、洒落気 (しゃれけ)とも茶番気タップリの椿岳は忽ち乗気 (のりき)となって、好きなことを仕尽 (しつく)して後のお堂守 (どうもり)も面白かろうと、それから以来椿岳は淡島堂のお堂守となった。

『思い出す人々』

その淡島堂のお堂守りとしても椿岳は幾つも面白いエピソードを残している。

いや、その前に、画家淡島椿岳について語るのを忘れていた。

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著者所蔵の淡島寒月 著・画『おもちゃ百種』より

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「父系図」坪内祐三
第一回 淡島椿岳・淡島寒月

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