ホーム 『父系図』坪内祐三 第一回 淡島椿岳・淡島寒月 Page 3

先に私は趣味人ではなく趣味家とする森銑三の言語センスの鋭さについて触れたが、趣味人というとどこかスタティック、つまり落ち着いた感じがする。

それに対して趣味家はもっとアクティブ、行動的である。

椿岳はまさに行動的な人だった。しかもその行動力を立身出世をはじめとする世間の役に立つことにまったく使おうとしなかったことが素晴らしい。

淡島(旧姓小林)椿岳(米三郎)は文政六(一八二三)年川越の豪農の三男として生まれる。

彼の長兄八兵衛 (はちべえ)小石川伝通院 (こいしかわでんずういん)前の質商伊勢屋長兵衛(通称伊勢長)に奉公に出、そこで頭角を現わし、伊勢屋の一族である伊藤という幕府の御用商人の婿養子となる。

伊藤というはその頃京橋十人衆といわれた幕府の勢力ある御用商人の一人で、家柄も () かったし、資産も持っていた。が、天下の大富豪と仰がれるようになったのは全く椿岳の兄の八兵衛の奮闘努力に由るので、幕末における伊藤八兵衛の事業は江戸の商人の 掉尾 (とうび)の大飛躍であると共に、明治の商業史の第一 (ページ)を作っておる」

『思い出す人々』

明治を代表する総合誌に『太陽』(博文館)があって、その創刊号(明治二十八年一月号)に当時の文豪依田百川 (よだひゃくせん)(学海)による伊藤八兵衛のミニバイオグラフィーが載っている。伊藤八兵衛は明治前期の大富豪としてそれほどの有名人だった。

『太陽』(博文館)

明治28年1月〜昭和3年2月まで刊行された博文館発行の総合雑誌。政治・軍事・経済・社会のみならず自然科学全般・文学・風俗の分野に総執筆者数6,500人が名を連ねる。

依田百川(1834〜1909)

幕末〜明治時代の漢学者・演劇評論家。下総の佐倉藩士。維新後は太政官修史曲編修官、文部省少書記官などを歴任し、退官後は演劇改良運動にたずさわる。

その伊藤八兵衛の世話によって椿岳(米三郎)は馬喰町の軽焼屋、淡島屋の養子となる。

軽焼というのは聞き慣れない言葉だが(何しろ大正時代に執筆された『思ひ出す人々』で内田魯庵が「軽焼という名は今では殆んど忘られている」と書いているくらいだ)、要するに、カルメラ焼きをもっとウェハース状にした菓子らしい。

しかしそれはただの菓子ではなく、江戸の時代に、死に至る病と言われ、食事制限もされた 麻疹 (はしか)疱瘡 (ほうそう)の患者の間食や見舞品は軽焼に限られたから、それらの病気が流行 (はや)れば流行るほど軽焼は爆発的に売れた。

しかも椿岳の先代(二代目)はアイデアマンだったから淡島屋はますます繁盛した。

そういう店を、「早くから絵事に志ざした風流人であって 、算盤 (そろばん) (はじ) いて身代を肥やす商売人肌ではなかった」椿岳が継いだのである。それでもしばらくの間は例えば兄伊藤八兵衛のサポートをした。八兵衛は「眼に一丁字 (いっていじ)」き人だったから、彼は、風流人である「椿岳の米三郎を交際方面に当らしめた」のだ。

そして、明治維新がやってくる。

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著者所蔵の淡島寒月 著・画『おもちゃ百種』より

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「父系図」坪内祐三
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