ホーム 『父系図』坪内祐三 第一回 淡島椿岳・淡島寒月 Page 2

この親子は近代日本史の中で私が一番好きな親子だ。

では、どんな親子だったのだろうか。まず、それぞれの肩書きは?

例えば吉田茂、健一親子のように政治家と文学者だったなら、わかりやすい。

ところが淡島椿岳と寒月の場合は。

淡島椿岳は画家であるが、それが正業というわけではなく、要するに趣味人。

その息子、寒月は椿岳以上の趣味人。

これは適当に言っているのではない。

辞典としてだけでなく私が愛読している本に、森銑三 (もりせんぞう)編の『明治人物逸話辞典』(東京堂出版 昭和四十年)がある。

森銑三(1895〜1985)

大正〜昭和時代の書誌学者。東京帝国大学史料編纂所、尾張徳川家蓬左文庫につとめ、戦後は早稲田大学で書誌学を講義した。

椿岳も寒月も共にその辞典に載っていて、その肩書きはやはり共に「趣味家」となっている(趣味人と言うより趣味家と言ったほうが言葉の響きがよい――さすがは森銑三)。

ついでだから、森銑三に従って、二人のプロフィールを紹介しておこう。

淡島椿岳(一八二三〜一八八九)
淡島椿岳趣味家。武藤川越在の農家に生まれた。二十余歳にして日本橋 馬喰町 (ばくろちょう)の名物軽焼屋 (かるやきや)淡島の養子となったが、間もなくそこを出た。晩年浅草の奥山に淡島堂を建てて閑居し、独特の漫画を描いて、一部の人々の珍重するところとなっていた。明治二十二年九月二十一日歿す、年六十七。

淡島寒月(一八五九〜一九二六)
淡島寒月趣味家。江戸の人、椿岳の子、 西鶴 (さいかく)に傾倒して、愛鶴軒 (あいかくけん)と号した。外に梵雲庵 (ぼんうんあん) の号もある。大正十五年二月二十三日歿す、年六十八。歿後『梵雲庵随筆』の一書が刊行される。

淡島 椿岳(あわしま ちんがく)

淡島椿岳

淡島 寒月(あわしま かんげつ)

淡島寒月

淡島椿岳についての伝記的資料は殆ど残っていない。

しかし、ありがたいのは、文芸評論家で随筆家で翻訳家の(つまり、マルチな文筆家だった) 内田魯庵 (うちだろあん)(彼とその長男である画家の内田巖 (うちだいわお)の親子もこの連載で登場するだろう)が「淡島椿岳――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド――」という評論を書き残してくれたことだ。

内田魯庵(1868〜1929)

 明治〜大正時代の評論家・小説家。「くれの廿八日」「社会百面相」などの社会小説で注目されたのちに丸善で「学燈」を編集する。ドストエフスキー「罪と罰」の翻訳でも知られる。

内田魯庵

随筆的評論集『思ひ出す人々』(初刊時のタイトルは『きのふけふ』)にその評論は収められていて、『思ひ出す人々』は古書としてさほど珍しい本ではないけれど、一九九四年に『新編 思い出す人々』が岩波文庫の一冊となり、手軽に読めるようになった。

『新編 思い出す人々』岩波文庫

『新編 思い出す人々』岩波文庫

岩波文庫版で四十頁以上ある、その内田魯庵の「淡島椿岳」を元に椿岳の生涯を振り返り、田口米舫 (たぐちべいほう)の「淡島椿岳」(『書斎』大正十五年七月号)や竹内梅松 (たけうちばいしょう)の「淡嶋 (ママ)椿岳のことども」(『塔影』昭和十二年十二月号)や、脇本樂之軒 (わきもとらくしけん)の「椿岳の才」(『浮世絵界』昭和十六年三月号)などでエピソードを補足しながら、まずは、趣味家淡島椿岳を紹介していきたい。

Highslide JS
著者所蔵の淡島寒月 著・画『おもちゃ百種』より

前のページ

次のページ

「父系図」坪内祐三
第一回 淡島椿岳・淡島寒月

目次  1   2   3   4   5   6   7   8