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第12回 人物編:「皇帝になろうとした生臭坊主・道鏡の最期」 Page 4

第12回 人物編:
「皇帝になろうとした生臭坊主・道鏡の最期」

道鏡と物部氏の意外なつながり

孝謙上皇(称徳天皇)は聖武天皇と光明こうみょう皇后こうごう光明子こうみょうし)の間の娘で、光明子は藤原不比等の娘なのだから、「藤原系の天皇」であった。けれども、聖武天皇と光明子が「藤原の子」「藤原の娘」でありながら、「藤原氏のやり方に疑問を感じていた」こと、光明子が「藤原不比等の娘」である以上に、「あがた犬養いぬかいの三千代みちよの娘」であったことは、連載中に述べてきたとおりだ。したがって、「県犬養三千代の孫」の称徳天皇も、「藤原の子」でありながら、反藤原的だった可能性が高い。

橘奈良麻呂の変(七五七)に際し、光明皇太后と孝謙天皇が、二度も謀反人たちを釈放していたのは、橘奈良麻呂が県犬養三千代の孫だったこと、母と娘が、「藤原のために働いている振りをして、実際には反藤原派とつながっていたから」だろう。

天平宝字元年(七五七)に孝謙天皇は、「内陣のとばりに天下太平の文字が浮かびあがっていた」といって、道祖王ふなどおうを廃太子に追い込み、大炊王おおいおう立太子りったいしの茶番劇を演出した。これは、恵美押勝の描いたシナリオを、その通り孝謙天皇が演じてみせたのだろう。けれども、もし仮に私見通り、孝謙天皇の本心は「反藤原」であるのに、権力者の横暴に従わざるを得なかったとするならば、これほどの屈辱があるだろうか。

「いったい、天皇とはなんなのか」

「藤原のための天皇なら、天皇など必要ない」

「藤原が権力を握るための道具が天皇ならば、天皇などない方がまし」

という発想に結びついていったのではなかったか。だからこそ、「天皇をやっこにしても、奴を天皇といっても」という言葉が口を突いて出たのだろう。これが、聖武天皇の遺言ではなく、孝謙天皇本人の気持ちだったと思えば、道鏡擁立の真意も、明らかになってくるのではあるまいか。

『続日本紀』天平宝字八年(七六四)九月、恵美押勝の乱の直前、恵美押勝は道鏡を指して、次のように罵倒している。

「道鏡の朝廷で活躍している様子を観ると、先祖の大臣として仕えていた過去の一族の栄光を取り戻そうとしているのだ」

道鏡の俗姓は弓削連で、「弓削」は物部氏と接点をもつ。弓削連は物部氏と勢力圏を接し、蘇我そがの馬子うまこに滅ぼされた物部もののべの守屋もりやの母は、弓削氏である。

ただし、弓削氏の祖で大臣を務めた人物はおらず、そのため、道鏡は物部系の可能性が出てくる。

物部氏の祖のニギハヤヒは、神武しんむ東征とうせい以前のヤマトの王であり、称徳天皇は、「いっそのこと、ヤマト朝廷を振り出しに戻してしまおう」と考えたのではあるまいか。

道鏡の王権おうけん簒奪さんだつ計画には、多くの謎と秘密が隠されているように思えてならない。

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