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第12回 人物編:「皇帝になろうとした生臭坊主・道鏡の最期」 Page 3

第12回 人物編:
「皇帝になろうとした生臭坊主・道鏡の最期」

称徳天皇のご乱心は恵美押勝の専横に対する反動?

天平てんぴょう宝字ほうじ八年(七六四)の恵美押勝の乱を制した孝謙こうけん上皇は、兵数百を淳仁天皇のもとに派遣し、次のような強烈な宣命を読み挙げさせている。

「聖武天皇が私に皇位を譲られたとき、次のように述べられた。王をやっこ奴婢ぬひ)となしても、奴を王といっても、私の好きにすればよい……」

淳仁天皇を「廃帝」というのは、皇位を孝謙上皇に剥奪されたからである。孝謙上皇は、聖武しょうむ天皇から授かった「王を奴にしても、奴を王といってもかまわない」という権利を、実行してみせたわけだ。そしてこの言葉の延長線上に、道鏡擁立が隠されていたわけである。

孝謙上皇の暴走は「恵美押勝の専横に対する反動」ではなかったか。

恵美押勝は藤原ふじわらの不比等ふひとの四人の男子、武智むち麻呂まろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろ天然痘てんねんとうで全滅したのち、ひとりで藤原氏の復興を成し遂げた。それはそれで偉業といっていいが、手口が卑劣なものだった。

連載中触れたが、聖武天皇の大仏造立を邪魔立てし、紫香楽しがらき周辺で山火事を起こし、ゲリラ戦を展開したのが、恵美押勝であった。また聖武天皇とあがた犬養いぬかいの広刀自ひろとじとのあいだに生まれた安積あさか親王しんのうを密殺したのも、恵美押勝だった可能性が高く、たちばなの奈良なら麻呂まろへん(七五七)は、橘奈良麻呂や大伴おおともの古麻呂こまろが恵美押勝の挑発に乗った形で起きている。

反藤原派を一掃した恵美押勝は、専横をくり広げていく。

恵美押勝は淳仁天皇に「父」と呼ばせていたことはすでに述べたが、淳仁天皇は本当の父親=舎人親王とねりしんのうに「皇帝」の称号を授けている。淳仁天皇の父=舎人親王は皇帝なのだから、同じ淳仁天皇の父=恵美押勝も、「皇帝と同等の地位」に立ったことになる。子供だましのような話だが、本人たちは大真面目であった。

恵美押勝は、「貨幣鋳造ちゅうぞうの権利」を獲得してしまう。これは本来国家の仕事であり、個人が好き勝手に金を造り続ければ、当然インフレが起きる。インフレの中で富み栄えるのは、貨幣を勝手に鋳造できる恵美押勝だけになってしまう。

恵美えみ家印けいん」の所持も許されている。

これは私印だが、官印と同等の扱いを受けていた可能性がある。

また、恵美押勝は他の藤原氏をも排除し、「恵美家だけで朝堂を独占する」体制を築いた。

このように、恵美押勝は「実権」を完全に掌握し、政敵を抹殺し、「皇帝と同等の権威」を獲得したのだから、実質的な「王」そのものといっていい。憶測にすぎないが、恵美押勝は玉座をも狙っていた可能性が高い。しかもそれは、「傀儡かいらいの王」ではなく、独裁王である。

孝謙上皇が道鏡に熱を上げ、いっぽうで淳仁天皇を避難し、暴れ出した本当の理由は、恵美押勝の専横に対する怒りが、隠されていたのではなかろうか。

道鏡と物部氏の意外なつながり

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