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第12回 出来事編:「呪われた平安京遷都の知られざる理由」 Page 4

第12回 出来事編:
「呪われた平安京遷都の知られざる理由」

早良親王の祟りの本当の恐ろしさ

藤原氏は藤原不比等の四人の子がそれぞれ、北家ほっけ南家なんけ式家しきけ京家きょうけに別れて、主導権争いを演じていた。藤原種継は式家で、おそらく、他の家の誰かが、仕掛けたのだろう。早良親王と藤原種継を抹殺して、大伴氏と秦氏の「思い上がり」を懲らしめる目的である。

また、桓武天皇にも、「事件を起こす動機」があったように思われる。弟の早良よりも、息子の安殿あてに、皇位を譲りたいという親心が芽生えた可能性がある。

ところが、事件は意外な方向に進む。早良親王は捕らえられ、廃太子となり、淡路あわじのくにに配流となったが、抗議の断食をして亡くなってしまったのである。

後味の悪い結末となった。それどころか、ここから先、長岡京に戦慄が走る。早良親王の祟りが襲ったからだ。延暦七年(七八八)のことである。

桓武天皇のきさき旅子たびこ、早良親王の母・高野たかの皇太后こうたいごう、安殿や賀美能かみの親王しんのうの母で桓武天皇の皇后・おと 牟漏むろがつぎつぎに亡くなっていった。たまらず桓武天皇は、早良親王の御陵のある淡路国府に命じ、御陵に塚守を置き、周辺での殺生を禁じた。

しかし、本当の早良親王の祟りの恐ろしさは、ここから始まった。延暦九年の秋から冬にかけて、天然痘が流行したのである。

安殿親王の体調が思わしくなかったので、占ってみると早良親王の祟りと分かった。あわてて安殿は伊勢神宮に参拝、桓武天皇は改めて早良親王を祀った。早良親王は崇道天皇と追号されたのである。

早良親王を祀った崇道天皇社(奈良市西紀寺町)

早良親王を祀った崇道天皇社(奈良市西紀寺町)

呪われた長岡京から遷都した平安京も呪われた

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