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第12回 出来事編:「呪われた平安京遷都の知られざる理由」 Page 3

第12回 出来事編:
「呪われた平安京遷都の知られざる理由」

藤原氏に濡れ衣を着せられて、流罪になった早良親王(崇道天皇)

桓武天皇は天応てんおう元年(七八一)に平城京で即位したが、すぐに遷都を計画した。延暦えんりゃく 三年(七八四)六月には山城やましろのくに乙訓郡おとくにのこおりに長岡京(京都府向日市、長岡京市、京都市にまたがる)の造営をはじめ、十一月、完成を待たずに遷都を済ましている。

ところが、ここで思わぬハプニングが起きている。翌年の四月、桓武天皇が長岡京を留守にした隙をついて、何者かが、造都の責任者・藤原種継を射殺してしまったのだ。

下手人はすぐに捕まった。『続日本しょくにほんぎ』によれば、中納言・大伴おおともの家持やかもちが大伴氏と佐伯氏を巻き込み、桓武天皇の実の弟で皇太子の早良さわら親王しんのうをそそのかし、藤原種継を殺したというのである。

早良親王はすぐに捕らえられ、廃太子はいたいし、淡路国に配流はいるがきまった。大伴家持は東北の地に赴任していたが、事件の直前に、すでに亡くなっていて、死後追罰を受けた。遺骸の埋葬を許されず、官籍からはずされた。息子も流罪となっている。

大伴家持と藤原種継は、同じ中納言で、良きライバルであった。ただし、藤原種継は桓武天皇の寵愛ちょうあいを受けていたという強みを持ち、家持を東北の地に左遷させるために暗躍したようだ。だから、大伴家持が藤原種継を恨んでいても、なんら不思議はない。

けれども、真犯人は別にいたように思えてならない。大伴家持、藤原種継の双方を同時に葬ってしまおうという、遠大な計画が、仕組まれていたのではあるまいか。

藤原種継の母は秦氏はたしで、山城国の土地に深く根ざした渡来系豪族だった。長岡京遷都を急いだ桓武天皇は、秦氏と太いパイプを持つ藤原種継を重用したのだろうし、こののち、秦氏の影響力が増していくことは、火を見るよりも明らかだった。他の藤原氏にすれば、面白い話ではない。

皇太子の早良親王が大伴氏とつながっていたことも、藤原氏にすれば、許されることではない。早良親王が即位すれば、藤原氏の地位が危うくなる。彼らの標的は、大伴家持ではなく、早良親王であろう。早良親王を抹殺するために、大伴家持が主犯格にでっちあげられたのだろう。

早良親王の祟りの本当の恐ろしさ

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