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第12回 出来事編:「呪われた平安京遷都の知られざる理由」 Page 2

第12回 出来事編:
「呪われた平安京遷都の知られざる理由」

なぜ平城京も棄てられたのか

光仁天皇の正妃は、井上いのうえ内親王ないしんのうで、ふたりの間の子・他戸おさべ親王しんのうが、皇太子となった。井上内親王は天武系だから、バランスを考えた、ということになる。

ところが、宝亀三年(七七二)三月、井上内親王は、巫蠱ふこ(人を呪うこと)を行ったと言いがかりをつけられ、皇后位を剥奪される。その二ヶ月後、皇太子の他戸親王も、母とともに厭魅えんみ大逆たいぎゃく(妖術で君主を呪うこと)に荷担してきたと糾弾され、廃太子となってしまった。

事件は、まだ続く。宝亀四年(七七三)十月、光仁天皇は、突然井上内親王と他戸親王を責めた。姉が亡くなったのは、井上内親王の呪いに違いないというのだ。藤原百川の入れ知恵だろう。

こうして母子は大和国やまとのくに宇智郡うちぐん に幽閉されたのである。そして宝亀六年(七七五)四月二十七日、井上内親王と他戸親王は、幽閉先で同じ日に亡くなってしまった。殺されたのだろう。

公卿くぎょう補任ぶにん』は、一連の事件を「藤原百川の策謀」だったと記録し、『本朝後胤紹運録ほんちょうこういんじょううんろく』は、井上内親王と他戸親王は「獄中」で亡くなったあと、龍になって祟ったと語り継ぐ。無視できないのは、『水鏡みずかがみ 』も、藤原百川が祟りに苦しめられたと記していることだ。

井上内親王と他戸親王は、のちに祟り神と恐れられ、丁重に祀られる。元興寺がんごうじ(奈良市)の近くの御霊ごりょう神社が、ふたりを祀る神社である。

ここで注意しなければならないのは、他戸親王を抹殺しなければ、桓武かんむ天皇(山部やまべ親王しんのう)は即位できなかったという事実である。

「血の論理」で考えても、桓武天皇即位の可能性は低かった。なにしろ他戸親王の母・井上内親王は、聖武天皇の娘であり、かたや桓武天皇の母は、百済の武寧ぶねいおう末裔まつえい高野たかの新笠にいかさであった。普通これを「卑母ひぼ」と呼ぶ。だから、桓武天皇が皇位継承できたことは、奇跡的なことだった。

ちなみに、なぜ百済くだらおうの末裔を母に持つ桓武が即位できたのかといえば、藤原氏が強力に押したからで、連載中述べたように、藤原氏の祖・中臣鎌足なかとみのかまたりが、百済王家から日本に人質として預けられていた豊璋ほうしょうだったと筆者はみる。

いずれにせよ、他戸親王に難癖をつけて抹殺できたからこそ、桓武天皇は即位できたのである。

つまり、桓武天皇は「祟られる対象」でもあったのだ。ここに、平安京遷都のひとつのヒントが隠されているように思えてならない。平城京は、藤原氏にとって、「政敵を葬り去った戦場」であった。それはとりもなおさず、「藤原氏を恨む人々の墓場」であり、藤原氏は祟り神と共に暮らしていたのだ。そして、藤原氏が井上内親王と他戸親王を抹殺することによって皇位が転がり込んできた桓武にしても、平城京は恐ろしい土地になっていったはずである。

藤原氏に濡れ衣を着せられて、流罪になった早良親王(崇道天皇)

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