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第11回 人物編:「庶民の味方、乞食坊主の行基と招かざる高僧、鑑真」 Page 5

第11回 人物編:
「庶民の味方、乞食坊主の行基と招かざる高僧、鑑真」

鑑真の来日を要請した長屋王はすでに滅亡していた

鑑真は、けっして日本仏教界に大歓迎されたわけではなかった。それまでは、授戒する資格を持った僧がいなかったため、出家する者は、自ら「戒」を守ることを誓約うけいしていた、これを「自誓じしょう作法さほう」というが、「正式な授戒を受けなくとも、これまでどおりでよいではないか」と、名だたる寺の僧たちが主張しだしたのである。

もちろん、既得権益に守られたエリートたちの反乱であった。興福寺こうふくじの講堂で、学僧と鑑真の弟子・思託したくが議論を闘わせ、思託が日本の学僧を論破する場面もあった。いずれにせよ、日本の仏教界が鑑真に冷淡であったことは間違いない。

思託は鑑真に対する日本側の誹謗中傷や冷淡な態度に業を煮やし、「鑑真はいかに偉大な僧なのか」を、文字に書き残した。これを淡海おうみの三船みふねが、わかりやすく書き直したのが、『唐大とうだい和上わじょう東征伝とうせいでん』である。

この文書には、鑑真が来日するきっかけになったひとつの事件を今に伝えている。

遣唐使とともに入唐した栄叡えいえい普照ふしょう揚州ようしゅうおもむき、鑑真に来日を請うたとき、鑑真は次のような長屋王とのやりとりを述べたというのである。

すなわち、日本国の長屋王は、仏法を崇拝し、千の袈裟けさを造り、この国に贈ってきた。その袈裟の縁の上に、次の句を刺繍ししゅうしてあった。

山川域さんせんいきことにすれど、風月ふうげつ天を同じくす。これを仏子ぶしせて、とも来縁らいえんむすばん」

これを観て、鑑真は心を揺さぶられたらしいのだ。そして、日本行きを決意した……。

ちなみに、この長屋王の漢詩は、中国にも資料が残っているので、作り話ではないようだ。多くの弟子が尻込みする中、「それなら、私が日本に赴こう」と鑑真が決意したのは、

「異なる世界に住むわれわれだが、仏縁で結ばれているではありませんか」

という純粋な長屋王の信仰心に、鑑真は胸を打たれたからだろう。だから、「密航」をしてまで、日本にやってこようと考えた。しかし、鑑真が来日したとき、すでに長屋王は、藤原氏の魔の手にかかり、滅亡していた……。

日本側の冷たい仕打ちに煮えくりかえった思託が、「長屋王の真心」を強調している点は、無視できない。なにしろ長屋王は反藤原派の旗印であり、鑑真が来日した時、すでに長屋王は藤原四兄弟の手で抹殺されたあとだったからだ。

反藤原派の天皇に豹変し、仏教を重視した聖武天皇の時代であったが、すでに藤原仲麻呂が台頭し、息の根を止められようとしていた。

当然、藤原仲麻呂は、「反藤原派の手柄」である鑑真の来日をこころよく思っていなかっただろうし、藤原氏の氏寺・興福寺の僧たちが鑑真たちを無視しようとし、また「授戒など必要ない」と突っぱね、思託たちと論戦を展開した理由も、これではっきりとする。

鑑真の来日を快く思わなかった、藤原氏の氏寺・興福寺

鑑真の来日を快く思わなかった、藤原氏の氏寺・興福寺

藤原仲麻呂全盛期に突入した瞬間、鑑真が御用払いになった意味は、歴史をふり返らなければ、その真意をつかむことはできないのである。

※写真はすべてウィキペディアより

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