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第11回 人物編:「庶民の味方、乞食坊主の行基と招かざる高僧、鑑真」 Page 4

第11回 人物編:
「庶民の味方、乞食坊主の行基と招かざる高僧、鑑真」

唐の高僧鑑真は、すでに“お荷物”になっていた?

奈良仏教を築いたもうひとりの偉人・鑑真は、唐の時代の高僧で、「諸州しょしゅう屈指くっし伝戒師でんかいし」と名がとどろいていた。この高僧がなぜ日本に渡ってきたかというと、日本側が「伝戒師を求めた」からである。

この時代、生活苦から、勝手に僧になってしまい、税や労役を免れようとする輩が続出し(私度しどそう優婆うばそく)、朝廷は頭を悩ませていた。そこで唐の授戒じゅかい制度を見習い、授戒をする資格を有した僧(伝戒師)を招聘しょうへいしたのだ。伝戒師から授戒した者だけが、正式に僧として認められる仕組みを造ろうとしたのだ。

鑑真は五回渡航に失敗し、両目を失明し、大切な弟子を亡くしてしまった。六回目の渡海で、ようやく日本にたどり着いている。一度は、日本の役人が保身のために鑑真を裏切り、唐に身柄を引き渡している。唐の国禁を犯してまでして、鑑真は来日を決意していたのだ。

天平てんぴょう勝宝しょうほう五年(七五三)十二月、鑑真は日本の土を踏み、大宰府観世音寺(福岡県太宰府市)で、日本初の授戒を行なった。翌年二月に平城京に入ると、孝謙天皇や聖武上皇の歓迎を受け、四月に東大寺大仏殿前に戒壇を造り、聖武上皇らに授戒している。

ただ、この後の日本での生活が順調だったわけではない。たとえば鑑真は大僧都だいそうずを任ぜられるが、「僧都」とは、僧綱そうごう(僧官)の「僧正そうじょう」「僧都」「律師りつし」の真ん中に位置する。日本の仏教界の重鎮だが、最高位に就いたわけではなかったのだ。

さらに、鑑真といえば唐招提寺とうしょうだいじ(奈良市五条町)を思い出すが、これは朝廷が建てた寺ではない。「招提」は「私寺」を意味していた。

鑑真が創建して、戒壇を設置した唐招提寺

鑑真が創建して、戒壇を設置した唐招提寺

天平宝字二年(七五八)には、淳仁天皇から、「あなたは老齢ゆえ、あまりこれ以上苦労されることはない」と、大僧都から引きずり下ろされてもいる。通説は、よい意味に捉えて鑑真の健康を気遣ったと考える。だが、橘奈良麻呂の変が、この前年であったことを軽視するわけにはいかない。藤原仲麻呂がいよいよ全権を握ろうとしていた時代であった。

藤原仲麻呂にとって、鑑真は「前政権の置き土産」であって、特別ありがたく思っていなかったようだ。むしろ、お荷物になっていた可能性が高い。

※写真はすべてウィキペディアより

鑑真の来日を要請した長屋王はすでに滅亡していた

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