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第11回 人物編:「庶民の味方、乞食坊主の行基と招かざる高僧、鑑真」 Page 3

第11回 人物編:
「庶民の味方、乞食坊主の行基と招かざる高僧、鑑真」

朝廷に危険視された行基を抜擢した聖武天皇

行基の偉大な業績は、何といっても、仏教を大衆のものにしたことだろう。それまでの仏寺といえば、貴族や天皇家の私物であった。仏教ぶっきょう公伝こうでん(五三八あるいは五五二)ののち、まず蘇我氏が仏寺を建立し、仏を祀る権利を得た。そののち、天皇家や諸豪族が、寺を建立していった。ただし、一般庶民に、信仰が浸透したかというと、じつに心許ない。古代の寺院は「病院」や「学校」も兼ねていたが、要するに貴族の財力によってエリート集団、インテリ集団が集められた場所が、仏寺だったのである。

これに対し行基は、多くの人たちに仏の道を説き、困った人たちを救済した。当然、人々は、行基を慕って集まった。平城京の東の高台に、数千人、多いときで一万人が徒党を組み、気勢をあげた。

しょく日本紀にほんぎ養老ようろう元年(七一七)四月の条には、次のようにある。

「小僧(行基に対する蔑称)行基は、弟子らとともに出没し、徒党を組みいたずらに説教をし、ものを乞い、聖道と偽って人々を幻惑している。風俗は乱れ、みな仕事を放り出してしまっている。これはほんとうの仏道ではなく、法令にも違反している」

朝廷は、行基の行動を危険視し、弾圧するように命じた。ところがのちに、聖武天皇は行基を抜擢してしまう。聖武天皇は「藤原の子」から「反藤原派」に転向し、行基とともに東大寺建立を押し進めていった。

ただし、聖武天皇の時代は天変てんぺん地異ちいが相次ぎ、干魃や飢饉、疫病によって社会は疲弊していた。このため、事業は必ずしも順調に推移したわけではなかった。このため、橘奈良麻呂の変(七五七)に際し、乱の首謀者と時の権力者・藤原氏との間で、東大寺建立事業の責任を擦り付けあうという事態も出来した。いずれにせよ、南都仏教のシンボルである東大寺建立の当初の目的は、「多くの人たちの力で、盧舎那仏を造ろうではないか」という聖武天皇の無邪気な発想にあったことは間違いない。そして、この壮大な構想に乗ったのが行基であり、この人物の活躍がなければ、東大寺建立は途中で挫折していただろう。

唐の高僧鑑真は、すでに“お荷物”になっていた?

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