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第11回 人物編:「庶民の味方、乞食坊主の行基と招かざる高僧、鑑真」 Page 1

第11回 人物編:
「庶民の味方、乞食坊主の行基と招かざる高僧、鑑真」

日本仏教史の曲がり角に登場した二人の僧

たちばな奈良麻呂ならまろへん(七五七)によって、反藤原派は一掃された。こうして、藤原ふじわら仲麻呂なかまろは藤原四兄弟の滅亡以来弱体化していた藤原氏の地位を、再び押し上げることに成功したのである。

こののち大炊おおいおうが即位して淳仁じゅんにん天皇になると、藤原仲麻呂は恵美えみの押勝おしかつの名を下賜かしされ(そうするように天皇に仕向けた)、天皇を傀儡かいらいにし、好き勝手な行動をはじめる。

恵美家えみけ」だけで朝堂を牛耳り、数々の特権を手に入れ、皇帝になろうとした気配さえある。もちろん、恵美押勝の野望は成就しなかったが、政局に大きな影響を及ぼした。そしてこの時、仏教界にも、大きな影響を及ぼしている。

そこで今回は、日本仏教史の曲がり角に登場し、仏教界の基礎を築いたふたりの偉人にご登場願おう。行基ぎょうき (六六八~七四九)と 鑑真がんじん (六八八~七六九)である。

大阪府堺市の家原寺にある行基の銅像

大阪府堺市の家原寺にある行基の銅像

鑑真和上像

鑑真和上像

連載第十回でお話ししたように、行基は乞食こじき坊主ぼうずの頭領でありながら、仏教界の頂点に登りつめた異色の存在である。

かたや鑑真は、中国を代表する高僧でありながら、日本の招聘しょうへいにこたえ、命を賭して来日した偉人だ。しかし皮肉なことに、鑑真は大歓迎を受けたわけではない。日本側の体制に大きな変化があったからだ。つまり、鑑真は橘奈良麻呂の変の煽りを強く受けた人物だったのである。

ところで、平安京遷都のひとつの理由に、南都仏教の腐敗が挙げられる。桓武かんむ天皇は新都に仏教を持ち込まないと心に決めていたほどだ。奈良時代末期の仏教界が、どのように腐敗していたのかといえば、それは怪僧・道鏡どうきょうの存在が大きな意味を持っていたのだろう。独身女帝・称徳しょうとく天皇に寵愛ちょうあいされて権力者となった道鏡は、玉座ぎょくざをも狙ったのである。

道鏡をめぐるいざこざについては、連載の中で詳しく語るが、平城京の仏教そのものが腐りきっていたのかといえば、そのようなことはない。行基や鑑真は、日本仏教の基礎を造り上げ、多くの人々に支持されていたのである。

そこでまず、行基の生涯を追ってみよう。

※写真はすべてウィキペディアより

師・道昭の影響を強く受けた行基

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