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第11回 出来事編:「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」 Page 5

第11回 出来事編:
「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」

“謀反”に目をつぶった、不可解な光明皇太后の態度

橘奈良麻呂は、大伴古麻呂らとともに、武力蜂起しようと企てた(朝廷側から見れば、謀反ということになる)。ただし、密告が先だった。橘奈良麻呂が田村宮たむらのみや(孝謙天皇の住まい)を包囲しようとしていること、大伴おおともの宿禰すくね古麻呂こまろくみしているというのである。

ところがここで、奇怪なことが起きる。

まず七月二日、孝謙天皇と光明皇太后は、

「多くの者が報告してくるが、これからは注意するように」

「お前たちは私に近しい者たちなのだから、皆、心を清め明るくして、朝廷を支えるように」

と述べ、うやむやにしてしまった。ところが、密告は次から次とやってくる。結局翌三日、一味は一網打尽に捕らえられる。ところがここでも、不思議なことが起きる。

光明皇太后は、「密告があったが、みな私を恨むような事をするとは思えない。このような企みはあるはずがない。だから罪は許す」と述べ、首謀者を釈放してしまった。みな、光明皇太后に深々と頭を下げ、感謝した。

ところが、藤原仲麻呂は再び彼らを捕らえ、拷問を加えて、反藤原派を壊滅に追い込むのである。

これが、橘奈良麻呂の変の全容である。藤原仲麻呂は刃向かう者を抹殺し、独裁権力を手に入れたのである。

橘奈良麻呂の変は、藤原仲麻呂の独裁体制を許した事件として、重要な意味を持っているが、もうひとつ見逃してならないのは、光明皇太后と孝謙上皇の行動である。なぜ二人は、謀反人たちを、二度も許してしまったのだろう。

光明皇太后(光明子)は藤原不比等の娘であるとともに県犬養三千代の娘であったと連載中述べてきた。橘諸兄も三千代の子で、光明子にとって橘奈良麻呂は甥っ子にあたる。

光明子は「藤原の女」を装いながら、「県犬養三千代の娘」として、聖武天皇を支え、橘諸兄らとともに、反藤原社会の構築を目論んでいたのではないかと思える節がある。その傍証のひとつが、橘奈良麻呂らを二度も許したという、異常行動に隠されていたように思えてならないのである。

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日本仏教史の曲がり角に登場した二人の僧

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