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第11回 出来事編:「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」 Page 4

第11回 出来事編:
「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」

孝謙天皇にはめられた道祖王

この当時、藤原仲麻呂と反藤原派は、一触即発の状態にあったようなのだ。反藤原派の中心に立っていたのは、橘諸兄の子の橘奈良麻呂や大伴古麻呂であった。

天平宝字元年(七五七)二月、橘諸兄が没し、三月には、事態は急展開した。聖武天皇の遺詔いしょうによって立太子していた道祖王ふなどおうが、無理矢理皇太子の地位を引きずり下ろされてしまった。その手口が、あまりにもえげつない。

おそらく藤原仲麻呂の要請を受けたのだろう。三月二十日の朝、孝謙天皇は寝殿の承塵しょうじんとばり(屋根裏から埃が落ちてくるのを防ぐ布や板)に「天下太平」と浮かびあがっているのを見つけた。誰かが墨書ぼくしょしたに違いなかった。けれども孝謙天皇は、大袈裟に驚いてみせた。親王や群臣を寝殿に招き入れ、喧伝けんでんしてみせた。この陳腐な「怪奇現象」が、廃太子はいたいしの大切な大義名分に使われようとは、この時誰も想像しなかっただろう。

五月二日、孝謙天皇は道祖王に言いがかりをつけた。「服喪中であるにもかかわらず、淫らな行為をした」というのだ。そして、「廃太子を密かに願っていたが、天地の諸神に祈って更迭の善し悪しを占ったところ、例の天下太平の四文字を得た」という。つまりこれは、神の意志だという。代わって立太子したのが、藤原仲麻呂の息のかかった大炊王おおいおうだった。大炊王は、藤原仲麻呂を「父」と呼んでいた人物である。

藤原仲麻呂は大炊王を自宅に引き取り、すでに亡くなっていた長男の嫁をあてがって、養子のようにして「飼い慣らしていた」のだ。反藤原派が、これを静観しているはずもない。

五月、藤原仲麻呂は、強引に紫微しび内相ないしょうに就任した。橘奈良麻呂らの動きに対抗するため、朝廷の軍事力をすべて掌握したのである。

そして六月九日、孝謙天皇は五条の禁令をだしている。
(1)諸氏族の氏上うじのかみは公用以外で人を集め、会合を開いてはならない
(2)王族や臣下の飼う馬の数を制限する
(3)規定以上の武器を集めてはならない
(4)武官以外は京中で武器を所持してはならない
(5)京中を五十騎以上で行動してはならない

明らかに、朝廷は武力蜂起を恐れていた。同月十六日、藤原仲麻呂は橘奈良麻呂ら主だった反藤原派の者たちを左遷してしまったのである。

“謀反”に目をつぶった、不可解な光明皇太后の態度

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