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第11回 出来事編:「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」 Page 3

第11回 出来事編:
「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」

万葉歌に残された政争の裏側

ここから、橘諸兄の子の奈良麻呂や大伴おおともの古麻呂こまろ(誰の子であったのか定かではない)らと藤原仲麻呂の暗闘が始まるのだが、『続日本紀』が書き漏らした政変劇の裏事情は、大伴家持の残した万葉歌から読み取ることができる。

ヤマト建国来の名門豪族・大伴氏は、蘇我そが氏や物部もののべ氏が衰弱したあと、奈良時代、平安時代前期を通じて、藤原氏と敵対していく。貞観じょうがん八年(八六六)の応天門おうてんもんへんで藤原氏の陰謀にかかって没落するまで、大伴氏は壮絶な戦いをくり広げていく。

万葉歌人として名を残した大伴おおともの家持やかもちの父は大伴おおともの旅人たびとで、長屋王の盟友で、反藤原の急先鋒であった。ところが、旅人が大宰府だざいふに赴任している間に、長屋王は謀反の嫌疑をかけられ、一族滅亡の憂き目に遭う。大伴旅人不在の中で起きた事件だけに、旅人の大宰府赴任も、藤原氏の陰謀だった可能性が高い。旅人は大宰府の地で酒浸りとなり、やがて藤原房前に「命乞い」をして許され、都に戻ってきた。

万葉歌人として名を残した大伴家持

万葉歌人として名を残した大伴家持

長屋王の盟友で反藤原派の急先鋒だった大伴旅人

長屋王の盟友で反藤原派の急先鋒だった大伴旅人

大伴旅人の子の家持は、聖武天皇の御子・安積親王と親交を深めていたが、安積親王が早逝そうせい した時大伴家持は、泣き濡れて、「せむすべも無し」と落胆している(『万葉集』巻三―四七五)。これには、深い理由があった。

平安時代の「万葉集」書写本のひとつ元暦校本万葉集

平安時代の「万葉集」書写本のひとつ元暦校本万葉集

大伴家持は反藤原派の旗頭となっていた橘諸兄を頼りにしていた。家持の歌『万葉集』巻十九―四二五六の題詞には「左大臣橘まえつきみことほかむがために(橘諸兄を顕彰けんしょうするために)」歌を作ったとあり、橘諸兄を指して、「我が大主(わが御主君)」と呼んでいる。

先の安積親王の母は県犬養広刀自で、橘諸兄の母も県犬養氏だから、もし安積親王が即位すれば、県犬養氏と橘氏の政権は安定し、藤原氏に対抗することが可能となるはずだった。だから、安積親王の死を大伴家持は嘆いたのである。

そのいっぽうで、大伴家持は藤原氏の恐ろしさを熟知していたから、橘諸兄が失脚し、聖武上皇も崩御されると、反藤原派と距離を置くようになっていく。

天平勝宝八年(七五六)五月十日、大伴おおともの古慈斐こしびなる人物が、朝廷を誹謗ひぼうし人臣の礼を失したため禁固処分を受け、十三日に許されたという事件が起きて、大伴家持は強く反応した。『万葉集』巻二十―四四六五には、「大伴氏の家柄を軽々しく考えてはならない。先祖の名を絶やしてはならない」と、一族に自重を促したのである。

※写真はすべてウィキペディアより

孝謙天皇にはめられた道祖王

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