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第11回 出来事編:「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」 Page 1

第11回 出来事編:
「反藤原勢力が丸ごと葬られた橘奈良麻呂の変」

血の粛清によって壊滅状態に陥った反藤原派

たちばなの奈良麻呂ならまろへん(七五七)は、奈良時代の数ある政変の中でも、もっとも規模が大きく、悲劇的な事件だった。

藤原ふじわら仲麻呂なかまろを排除し、称徳しょうとく天皇を引きずり下ろそうと企てた橘奈良麻呂ら、反藤原派が、密告によって一網打尽に捕らえられ、粛清しゅくせいされた事件である。処刑、流罪など、断罪された者は四四三名に上ったというから、橘奈良麻呂に荷担し藤原氏に刃向かった者のほとんどが、抹殺されてしまったのだ。結局藤原仲麻呂はひとり勝ちし、独裁者となっていくのである。

首謀者たちは処刑されたと記したが、これは正確ではない。孝謙こうけん女帝が当初首謀者たちを釈放しようとしたため、藤原仲麻呂は拷問ごうもんによって、なぶり殺し(杖下じょうかに死す)にしてしまったのだった。

また、首謀者たちには、屈辱的な蔑称べっしょうが与えられた。「多夫礼たぶれ(常軌を逸した者)」、「麻度比まどい(迷っている者)」、「乃呂志のろし(愚鈍の者)」といった具合である。

血の粛清によって、反藤原派は、壊滅状態に陥った。憎しみが憎しみを呼んだ惨たらしい政変であり、これ以降しばらく、藤原氏に楯突く者はいなくなったのである。

いったい、この事件は、なぜ起こったのだろう。話は、長屋王の変まで一度戻る。

神亀じんき六年(七二九)の長屋王の変は、藤原房前ふじわらふささきを中心とする藤原ふじわらの不比等ふひとの四人の子の陰謀であった。彼らは、反藤原派の旗印を一家丸ごと葬り去ることに成功したのだ。

こうして藤原四兄弟(武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろ)は、わが世の春を謳歌おうかしていた。ところが、天平てんぴょう九年(七三七)に藤原四兄弟が天然痘(てんねんとう)の病魔に襲われ滅亡すると、たちばなの諸兄もろえ玄昉げんほう吉備真備きびのまきびら、反藤原派が台頭し、聖武しょうむ天皇も反藤原の天皇に豹変ひょうへんしたのだった。

反藤原派の旗頭だった橘諸兄

反藤原派の旗頭だった橘諸兄

しかし、藤原仲麻呂の失地回復運動は、次第に力を増していく。紫香楽宮しがらきのみや盧舎那仏ろしゃなぶつを造立しようとした聖武天皇に対し、抵抗運動を続けたのだ。

宮の周囲の山がたびたび不審火につつまれ、人々に動揺が広がり、聖武天皇は盧舎那仏造立を断念せざるを得ない事態に追い込まれた。何者かが火をつけたことは、通説も認めているが、前後の成り行きから考えて、藤原仲麻呂の仕業であることは間違いない。

こののち、聖武天皇とあがた犬養いぬかいの広刀自ひろとじとの間に生まれた安積あさか親王も、藤原仲麻呂の魔の手にかかり(これは通説も認めている)、急逝きゅうせいしてしまう。

※写真はすべてウィキペディアより

長屋王と同じ運命を予感した左大臣、橘諸兄

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