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第10回 人物編:「聖武天皇 豹変の謎」 Page 6

第10回 人物編:
「聖武天皇 豹変の謎」

聖武天皇の勇気――「藤原の子」から「天武の子」へ

謎めく聖武天皇の行動を解き明かすもうひとつのヒントは、この人物の奇妙な詔に隠されている。というのも、聖武天皇はある時期から、自虐的な言葉を吐き続けるからである。

この時代、日本各地で天変地異が相次ぎ、また疫病が蔓延した。それを受けて、聖武天皇は「責任はすべて私にある」と言い出したのである。

たとえば『続日本紀』神亀四年(七二七)二月二十一日条には、次のような言葉が載っている。

「このころ、天のとがしるしがしきりに現れ、災いの気が止まない。聞くところによれば、時のまつりごとが道理に背き、民の心が憂え、怨むようになると、天地の神々は咎めを告げ、鬼神は異常を表すという。われが民に徳をほどこすことが少なく、なお怠っているということだろうか」

同様の発言が、この前後くり返されている。 つまり、自身の徳が少ないために、民を苦しめているのではないかと、悩み苦しんでいたのである。

「寝ても覚めても、恥じ入っている」

「わが不徳を恥じる気持ちと恐れが交互にやってくる」

と、嘆くのである。

聖武天皇はただ単に、天変地異と疫病の猛威に震え上がったのではなかった。前回お話しした長屋王の一族滅亡事件と藤原四兄弟の全滅、そしてやまぬ天変地異は、強い因果関係でつながっていると、聖武天皇は信じていたようなのだ。

罪なくして一族滅亡に追い込まれた長屋王の祟りに、多くの人々が震え上がっていた。そしてもちろん、聖武天皇も、震え上がっただろう。

長屋王を追い込んだのは藤原氏であった。しかし、最終的に判断を下したのは聖武天皇であった。当然、祟りの矛先は、聖武天皇にも向けられると考えたのだろう。

こうして、聖武天皇の一連の不可解な行動の真意がつかめてくる。

藤原四兄弟の全滅後長屋王の祟りにおびえた聖武天皇であったが、ひとたび「天武の子」であることに目覚めると、関東行幸を敢行し、壬申の乱の真似事をし、世間に「藤原の子から天武の子に入れ替わった」ことをアピールしたのだった。その上で、国家護持のための仏教を興隆しようと、東大寺建立を思いついたのだろう。

ひ弱でノイローゼ気味ではないかとさえ疑われた聖武天皇は、藤原権力に真っ向から立ち向かった、偉人だったのである。

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