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第10回 人物編:「聖武天皇 豹変の謎」 Page 4

第10回 人物編:
「聖武天皇 豹変の謎」

乞食坊主から大僧正に登りつめた行基

聖武天皇の「仏教狂い」も、藤原四兄弟の滅亡後のことだから、無視することはできない。

六世紀から七世紀前半にかけて、仏教導入に積極的だったのは蘇我氏で、中臣(藤原)氏は、排斥する側にまわっていたのだから、聖武天皇が「藤原の子」から「蘇我系の天武天皇の子」に生まれ変わったと考えられる。

聖武天皇は天平十二年(七四〇)に河内の知識寺ちしきじを訪ね、盧舎那仏造立(東大寺建立)を思い立った。知識寺は、それまでの、貴族や豪族たちの仏教寺院とは、一線を画した庶民の寺だった。寄付し、手を貸す者を、「善知識」と言うが、彼らの力を合わせて建てられた寺が、知識寺なのだ。聖武天皇は感動し、「私もこういう寺を建ててみたい」と夢みたといい、光明子が背中を押したというのである。

この時代、律令制の不備や矛盾が吹きだし、人々は重税と労役に苦しめられていた。税を都に運ぶ途中で行き倒れになる人が続出し、また、田畑を手放し放浪する者があとをたたなかった。彼らは優婆塞うばそく(非公認の僧で、乞食坊主の集団でもある。彼らも善知識となっていった)となり、社会不安の象徴となっていた。そして彼らを救済しまとめ上げたのが、僧・行基ぎょうきであった。行基は優婆塞や善知識の頭領といったところか。

優婆塞数千人を率いた乞食坊主 行基

優婆塞数千人を率いた乞食坊主 行基

藤原氏全盛期の行基は、朝廷から弾圧される側に立っていた。優婆塞数千人を率い、平城京の東側の山に集まっては、気勢をあげていた。多いときで一万人に達していたというから、朝廷も看過できなくなっていた。行基を「小僧」とののしり、弾圧したのである。

その行基を、聖武天皇は大抜擢し、仏教界の頂点である大僧正だいそうじょうに引き上げてしまう。そして、優婆塞たちの力を借り、土木工事を行い社会インフラを整備し、東大寺建立に邁進していくのである。

聖武天皇は大仏建立のみことのりの中で、「私の力をもって大仏を建立することはたやすい」と言い放っている。当然かつては「これは天皇権力のおごり」とみなされたものだ。聖武天皇のわがままで、民は苦しめられたと考えられてきたのだ。

しかし、詔の中で聖武天皇は、次のように続ける。「なかなか私の本心は理解してもらえないだろう。私の力ではなく、皆の力を合わせて、大仏を建立したいのだ」と述べている。つまり東大寺は、巨大な知識寺だったのである。

藤原氏の正体を知ってしまった聖武天皇

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