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第10回 人物編:「聖武天皇 豹変の謎望」 Page 3

第10回 人物編:
「聖武天皇 豹変の謎」

聖武天皇の五年にわたる彷徨の謎

天平十二年(七四〇)十月二十六日、九州の地で藤原広嗣ふじわらひろつぐが反乱を起こしているさなか、聖武天皇は平城京を飛び出し、関東行幸ぎょうこうに出立する。

「時期が悪いのはわかっているが、やむを得ない」

と言い残し、伊賀いが伊勢いせ美濃みの不破ふわ(関ヶ原)、近江おうみを巡り、山背国やましろのくに恭仁京くにきょうに留まった。さらに、紫香楽京に遷り、難波遷都を目論むなどして、結局平城京に戻ってくるのは、天平十七年(七四五)五月のことであった。足かけ五年にわたる彷徨ほうこうの目的は、いったい何だったのか。

通説は、「入れ替わった権力者のいいなりになった」とか、「ノイローゼ気味だったのではないか」と解釈し、さんざんな評価だった。

ところが次第に、「関東行幸は単純な彷徨ではない」と考えられるようになってきた。というのも、聖武天皇の行程は、壬申の乱(六七二)の大海人皇子(天武天皇)の足跡をなぞっている疑いが出てきたからだ。聖武天皇にとって天武天皇は、曾祖父そうそふに当たる。

天武天皇は国家護持の経典である『金光明経こんこうみょうきょう』を重視したが、その後廃れ、天武天皇の遺志を継承したのは、聖武天皇であった。国分寺と国分尼寺の造営は、まさに天武天皇の夢の実現と言っても過言ではなかったのである。

連載の中で述べてきたように、天武天皇は蘇我系の皇族であった。また、天武天皇崩御ののち、持統じとう天皇の登場によって、「天武の王家は持統(天智)の王家に観念上入れ替わっていた」のだ。それにもかかわらず、聖武天皇は、天武天皇を強く意識していたことになる。

聖武天皇は「藤原の子」として育てられたのだから、関東行幸はこの帝の「反抗期」ということになるのだろうか。「藤原の子」の聖武天皇が、「蘇我系皇族」の天武天皇を意識しだした意味は、とてつもなく大きいはずである。

乞食坊主から大僧正に登りつめた行基

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