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第10回 出来事編:「藤原系女人の乱――県犬養三千代と光明子」 Page 4

第10回 出来事編:
「藤原系女人の乱――県犬養三千代と光明子」

なぜ県犬養三千代は法隆寺を祀ったのか

県犬養三千代と光明子の母子は、法隆寺を丁重に祀っている。西院伽藍さいいんがらんの西北に位置する西円堂さいえんどうは、県犬養三千代が建立を発願した。また大宝蔵館だいほうぞうかんに祀られる「伝橘夫人厨子でんたちばなぶにんずし」の阿弥陀如来あみだにょらいは、県犬養(橘)三千代の念持仏ねんじぶつだ。聖徳太子等身像の救世観音 ぐぜかんのんの眠る夢殿を建立したのは光明子で、なぜかふたりは法隆寺を重視している。

法隆寺の大宝蔵館に祀られる「伝橘夫人厨子」の阿弥陀如来

法隆寺の大宝蔵館に祀られる「伝橘夫人厨子」の阿弥陀如来

梅原猛は、法隆寺は聖徳太子の怨霊おんりょうを封じ込めているといい、藤原氏が危機に瀕したとき、かならず法隆寺が丁重に祀られていると指摘した。その理由は、やや複雑だ。聖徳太子の子・山背大兄王やましろのおおえのみこの一族(上宮王家じょうぐうおうけ)を滅亡に追い込んだのは蘇我入鹿そがのいるかだが、これには黒幕がいて、中臣なかとみの(藤原)鎌足かまたりが入鹿を操っていたと推理した。そのため藤原氏は、聖徳太子の怨霊を恐れ、一族が危機に見舞われると、法隆寺を祀りあげたというのである。

しかし、藤原氏が法隆寺と特別視し出すのは、上宮王家滅亡事件から百年弱たってからのことで、両者に因果関係を見いだすことはできない。それに筆者は、「山背大兄王は蘇我氏を悪人に仕立て上げるための架空の存在」とみなしているのだから、梅原猛の考えに従うことはできない。

ならばなぜ、県犬養三千代や光明子、そして藤原氏は、法隆寺を重視したのだろう。

答えは簡単なことだと思う。ヒントは、タイミングだ。県犬養三千代や藤原氏らは、藤原四兄弟の滅亡後、必死に法隆寺を祀りはじめた。誰もが、長屋王の祟りを連想し、恐れたのだろう。『日本霊異記にほんりょういき』は、祟る長屋王の話を書き残している。

ならばなぜ、長屋王を法隆寺で祀ったのだろう。その答えも簡単だ。長屋王は天武天皇の孫であり、蘇我系の王家の一員とみなされたのだ。藤原氏は、長屋王の名を伏せ、他の「藤原に痛めつけられて恨みを抱く蘇我」とともに、法隆寺で名を伏せてまつったのだろう。

問題は、正史のどこにも、「長屋王がたたって出た」と記されていないことだ。それはなぜかといえば、祟りは祟られる側にやましい心があってはじめて成立するからで、長屋王の祟りを認めれば、藤原氏の罪が後世に知れ渡ってしまうからである。

県犬養三千代と光明子は、不本意ながら、藤原のいいなりになって働いてきた。だから多くの恨みを買っていたのであり、汚れた手を、必死に洗い流そうとしたのだろう。

愛する人々を必死に守り抜いた鉄の女・光明子

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