ホーム 『コトバの家』ねじめ正一 第一回 定住の人・高島茂と、漂流の人・高橋鏡太郎 Page 4

母は鏡太郎さんのことが嫌いだった。鏡太郎さんの奥さんの名前も母と同じ名前のみどりだった。同じみどりが嫌で嫌で仕方がなかったのだ。それでも、母は父の友達だと思っていたので、辛抱して、鏡太郎さんの応対をした。 

母は仕方なさそうに父の洋服を出してきて、私に渡した。父のほうが体が大きいので、ちょっとぶかぶかだが、さっきまでの鏡太郎さんとは違って、酒クサかったが、ヨーグルトの腐ったニオイはしなくなっていた。

鏡太郎さんは洋服を着て、これでやっと帰ると思ったら、「正一くん」とまた呼ぶのであった。今度は「お金を貸してくれ」と言う。母もさすがに怒りが爆発しそうな顔をしていたが、父の友人を無下にはできないという思いもあって、お金を鏡太郎さんに渡した。鏡太郎さんは風呂場の中と同じ鼻歌を歌いながら高円寺駅のほうに歩いていった。

僕はほっとしていた。これでもう今日は鏡太郎さんは我が家には来ないと思っていたのだが、2時間ほどすると、今度は我が家の中庭からではなく、乾物屋の店のほうから鏡太郎さんが「ねじめさん、いますか」とやってきた。

母は困った。本当に困った。今度は店番をしながら鏡太郎さんの相手をしなければならなかった。鏡太郎さんは店の外で待っていた。さっき裏口から帰ったあとにどこかの飲み屋で酒を呑んできたらしく、ちょっとふらついている。

そこへおまわりさんが通りかかった。鏡太郎さんのズボンは父のズボンであったが、ベルトは腰ヒモだった。おまわりさんは腰ヒモが気になるみたいで、鏡太郎さんのことをじろじろ見ていたら、鏡太郎さんがおまわりさんに向かって「おい、そこのおまわり、オレを調べたいんだろ。オレを逮捕したいんだろ」と言い出した。

おまわりさんは一瞬、きょとんとしたと顔つきになったが、「どうも、どうも」と言いながら我が家の乾物屋から立ち去ろうとしたら「おまわり、オレを調べたいんだろ。オレを調べるんなら徹底的に調べろよ」と、鏡太郎さんはしつこかった。

鏡太郎さんはわざわざおまわりさんの前に立ちはだかって「さあ、調べろ!」と言って、その場で腰ヒモを外してズボンを脱ぎ始めた。おまわりさんが鏡太郎さんを捕まえようとしたら、母が「この人は主人の友達なんで」と、かばった。

「乾物屋さんのご主人のお友達なんですか。わかりました。酔っぱらっているみたいですね。おい、ズボンを穿きなさい」

鏡太郎さんはおまわりさんに注意されてもズボンを上げようとしない。母は見かねて、「鏡太郎さん、ちゃんとしてください」と言う。

近所のお店の人たちがみんな店先に出てきて鏡太郎さんを見ている。

「鏡太郎さん、店に入ってください」

鏡太郎さんはズボンを上げながら乾物屋の店の奥に入っていってズボンを上げて、腰ヒモを結ぶと椅子に座った。

母が怒っているのがわかった。

私が店の奥の部屋に入ろうとしたら、「正一くん、どこへいくの」という。

仕方なく鏡太郎さんのそばにいるのだが、さっきお風呂に入ったはずの鏡太郎さんからもうヨーグルトの腐ったニオイがしてくるのだ。いつもの鏡太郎さんのニオイに戻っているのだ。

鏡太郎さんはまだ椅子に座っている。そろそろ店を閉めようとすると、鏡太郎さんは立ち上がって店から駅のほうに向かって歩いていくのだ。これから新宿の「ボルガ」に出かけていくのだ。

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