ホーム 『微笑がえし』石黒謙吾 シーン1 食堂の出会い Page 3

兼六園入口に続く緩い坂道に観光バスが停まる。「はい、みなさま。兼六園に到着しました」マイクをフックにかけ、急いで手でドアを押し空けタラップを降りて外に出た。セミの声がうるさいほど響きわたっている。そのあとに観光客が連なって降りてくると、背が低い恵美子はたくさんの頭の中に埋もれる。汗だくの中年男のグループが、ウチワであおぎながら近づいてきて、冷やかし半分で声をかけてくる。

「おねえちゃん、歌うまいねえ。今晩、飲みにいこうよ」

「片町には、きれいなおねえさんがいるお店がいっぱいありますからどうぞぜひ」

毎日繰り返されるこのやりとりには半年経ってもう慣れた。自分が男好きする顔だと気づいたのは中学生の頃だった。言葉には出さない同級生男子の視線で感じていた。特に美人でないことは自覚している。目は細いし鼻が高いわけでもない。ごく普通の顔立ち。だから、ちょっと不思議ではあった。子供の頃、黒目が大きいのがかわいいと親戚のおじさんに言われたことが印象深く残っていて、そのせいかなあとも時折思う。

バスガイドになってからは、客に誘われるだけでなく、同僚のバスの運転手からも言い寄られたりして、その状態に拍車がかかっていた。

「片町のおねえさんより、ガイドさんのほうがいいよ。名前は?」

「そうそう、メシおごるよ」

これって制服着とるからやないんかなあ。嬉しい時もあるけど、面倒くさいわあ。

「はい、ではみなさん、向かいますよー」

いつものように笑顔でさりげなく流して一団が動き始めると、恵美子を囲っていた頭がなくなり視界が開けた。すると坂の下の電柱に寄りかかっている稔の姿。また、恵美子を驚かせようと仕事をさぼって待ち伏せしていたのだ。もう何度同じことをやっただろうか。こちらに向かって手を振って嬉しそうなあいつ。周りに気づかれないよう笑いをこらえた恵美子。その横をランニング姿の少年がソーダのアイスキャンディーを舐めながら通り過ぎ2人を交互に見る。その時思った。幸せだと。

初めての相手は稔となった。熱情で惹き合う2人はごく自然に男と女になり、刹那的なリビドーは、恵美子の身体にひとつの生命を落とした。

「おし、ほんなら一緒になっか」ハイライトの煙を鼻から吐き出す稔。

「そんでいいが?」

子供ができたことを告げた時、あっけなく結婚が決まってしまった。ドラマチックさのかけらもない事務的なやりとり。喜びも驚きもとまどいもない、感情を超えた物理的な決断。のように見えたが、しかしそれはどちらも気持ちが乾いていたのではなく照れ隠しだった。そして恵美子も稔も極めて現実主義の人間だったから。結婚するかしないか決めるのなら、したほうがいい。そういう、どうせなるようにしかならない、という考え方の根っこには、父親がいない生活で形成された自立心と運命を受け容れる気質があったのかもしれない。

とは言え、恵美子はやはり嬉しかった。18歳で身篭り19歳で母親になる。その事実に親や姉妹は驚いたが、子供を授かり産むという女としての根源的な幸福感が、自分の中の不安感と周囲の心配を吹き飛ばした。

籍を入れて稔と結婚生活をスタートさせることももちろんだったが、子供を育てていけることに、生まれて初めて大きな夢を持てた。こんな気持ちを、希望というのだ、と。

山奥の村で生まれ、母親は女手ひとつで娘4人を育てた。質素を極めた生活。それを苦しいとか悲しいとか思ったことはなかったが、自分や家族の将来が華やかなものになるイメージは一度も持ったことがない。たぶん姉妹も同じだっただろう。

春になるとみんなで山菜を採り、お浸しや煮物、てんぷらにして食べた。セリ、ぜんまい、タラの芽。薄く残った雪の間から、仔猫の掌のように顔を出す淡い緑を、春の陽射しを浴び黙々と摘んでいく。恵美子にとって生きていて一番楽しい時間がそれだった。

スーパーに勤め、バスガイドになってからは生活に変化は出たが、周りから見えるほど派手な職業ではない。第一、まずは仕事を覚えていくのに必死。だから、来月や来年のことは漠然と考えても、将来は結婚するんだろうなあ程度の展望しか持ちえなかった。

しかし、今芽吹いた希望はずっとずっと彼方まで続いている。胎内に存在する生命からもらったこのまぶしい感情は、そのまま小さな命が継いでくれるだろう。

しっかり生きていかんとね。これからずっと笑ってこうね。いつまでも一緒ねんぞ。

中綿が潰れて薄っぺらになった蒲団の中で目をつむり、恵美子はお腹をさすりながら、まどろんでいった。

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「微笑がえし」石黒謙吾
シーン1 食堂の出会い

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