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翌週も、先輩バスガイドと食堂に来た恵美子の席に、稔の細長い顔が現れた。待ち伏せしていたかのようなタイミング。横の席に座り2人の会話に割り込んでくると、前回と同じように話しまくり、質問しまくる。その能天気な明るさに引き込まれて、小麦粉がざらざらと舌に残る水っぽいカレーがおいしくさえ感じた。彼は29歳だと言う。11歳上になるが、そんな年齢差を感じさせない若さというか子供っぽさを漂わせていた。

1時になり、今度はウィンクではなく、立ち上がりざまに恵美子の頭をぽんと軽く叩いて去っていく稔をあきれたように見ていた友人が、姿が消えたのを見届けて口を開く。

「変わった人やねえ。でもちょっとカッコイイがいね。背も高いしい。水泳部って感じやわ。あ、エミちゃんのことだいぶ気にいっとれんね」

「そんなんでないってえ。たださわがしい人ねんろ」

「なーん。ずっとあんたのことしか見とらんもん。すぐわかるげん」

恵美子は黙って、制服の袖口に少しだけついたカレーを、ぺろっと舐めた。

30分間の食堂雑談は、週に一度のペースで続いた。稔はワイシャツの胸ポケットに入れたメモ帳に次回の予定を書き留めていく。恵美子は待ち遠しくなっている自分に気づいている。必ず一人で来るようになり、生まれて初めて香水をつけてみたのは5回目のこと。デパートで買ってきてはみたものの、どこにつけていいのか恥ずかしくて聞けずに、とりあえず手首につけてみた。こうして食堂雑談は食堂デートに変わった。

口数が少なかった恵美子もだんだん饒舌になり、いろいろなことを話し合った。聞き合った。30分という限られた時間を濃密にし、生き急ぐかのように。生い立ち、親、兄弟、友達、地元、好きなこと、仕事のこと。将来のことや夢は語らない。遠い先に考えが及ぶほど二人には余裕がなかった。今を楽しく生きていきたい。笑って過ごしたい。そんな現実的で背伸びしていない稔に自分と同じ匂いを感じ、自然に強く惹かれていった。

実家は、雪が積もるとかんじきを履いて学校に通うような山村であること。四姉妹の上から2番目で母親と女ばかり5人家族。母親はいま電力会社のダムにある寮で寮母をやっていること。中学を出てすぐ市内のスーパーで働いていたが、思いきってバスガイドに応募して受かったが、その理由は音楽好きで歌を歌えるからだということ……。

それぞれの話題について稔は、相対する自分のことを話していく。その会話術がとてもスマートで輝いて見えた。今まで洗練された男には接したことがなかったから。

6人兄弟男4人の末っ子であり、一家で満州から引き揚げてきて、市の中心部に住んでいたこと。戦争にはぎりぎり行かなかった年代で、戦時中の旧制中学では水泳部で国体に出た。そして警察予備隊から自衛隊で6年間、音楽隊でスーザーフォンを吹いていたこと。東京でタクシー運転手、そして自動車教習所……。

一回り近く年上の男が積みあげてきた社会経験は恵美子にとって大人の頼もしさを感じさせるには十分だった。しかしもっと稔が特別な存在になる話が続いていく。

恵美子が生まれる少し前に父親が亡くなっている。大晦日に金沢市内で深酒をし、猛吹雪の中、繁華街から山奥まで歩いて帰った。5時間かけて家の3メートル手前までたどり着いたところで安心したのか倒れ、そのまま死んでしまったのだ。恵美子という名前は、女好きだった父親が、美しさに恵まれてほしいと、亡くなる前日に名前を決めていた。物心ついてからその話を聞いたが、最初から父親を知らない子供には悲しみという感情は湧かず、昔話を聞いているようだった。

一方、稔の父親。戦前、満州に税務署長として赴任していた頃、稔が母親のお腹にいる時に脳溢血で亡くなっていた。かなりの酒飲みでそれが原因だったという。

父親を知らない娘と息子。2人は相手の心に自分を見た。決して人には見せないぬぐいきれない寂しさを感じ取った。この瞬間、2人は決定的に恋に落ちた。

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「微笑がえし」石黒謙吾
シーン1 食堂の出会い

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