ホーム 『微笑がえし』石黒謙吾 プロローグ 一本の電話 Page 5

ベッドに戻り寝ころぶと、ヘッドフォンの奥から初々しい女性の歌声が弾き出された。交互にボーカルをとる3人の華のある声が、慎吾の心を覆っていた澱んだ雲を吹き飛ばしていく。まるで自分が東京にいて、デビュー曲のレコーディングに立ち会っているような錯覚に陥る。窓ガラスから見える金沢の闇さえも青空に変わったように感じた。

手元に置いたレコードジャケットには白と緑の衣装を着た3人の女の子が写っている。彼女たちをテレビで見て、一瞬で左上に写った女の子に心を掴まれ好きになった。その「8時だヨ!全員集合」が放送されたのはこの家に引っ越して来た日だったから、1973年4月7日という正確な日付まで覚えている。

「あなたに夢中」 歌ーキャンディーズ

ジャケットにはそう書かれていた。

東京にはこんなステキなおねえさんがたくさんいるのかな。ランちゃんは、6コ上だ。19歳か。東京に住んでるんだなあ。たった今も東京にいる。行けば逢えることあるのかな。はあ〜、こんなに好きになった人の近くに行きたい。今すぐ飛んでいきたい。紙飛行機みたいに。

3分あまりの曲はすでに終りに近づいている。オッサンの行動に対する釈然としない気持ち、不思議な電話の女……。少年の葛藤のすき間に、3人揃って歌うサビの歌詞が流れ込む。

<あなたがいて 私がいて この世は回るの……>

オッサンに引き裂かれたあと貼り直したポスターの中では、慎吾の頭と心の大部分をひとり占めしている人、伊藤蘭が微笑みかけていた。

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「微笑がえし」石黒謙吾
プロローグ 一本の電話

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