ホーム 『微笑がえし』石黒謙吾 プロローグ 一本の電話 Page 2

連続音に変わると、慎吾の指はスローモーションのようにゆっくりとフックにのび、受話器を置いた。足先を擦るように数歩後ずさり、手探りで壁紙のめくれ上がった切れ目を見つけ、蛍光灯のスイッチを押す。父親の仕事場という名ばかりの応接間は、最低限の体裁を整えただけの安っぽさ。その光景が慎吾を電話を取る前の日常に引き戻していく。大きく吐き出した息が白く漂いすぐに消えた。

もやもやした思いを引きずったままこんな寒い場所に立っていてもしかたないと、蛍光灯を切って部屋を出て、我慢していた小用を足すべくトイレに入る。目の前にはちょうど小窓があり、ガラスに付いた水滴を見ながら考える。

オッサンのとこ、さっと顔出していくか。すぐそばの居間まで電話のベルが聞こえただろうから、このまま2階に戻るとヘンに思うかもな。

 

居間の前で茶色く煤けたふすまを引くと、炬燵の角を挟んでふたり。年の離れた夫婦が湯呑み茶碗を手にテレビを見ているいつもの光景。画面にはホームドラマ。魚の名前が並んだ湯呑みから口を離したオッサンが、中学1年生にしては背が高いひょろっとした慎吾を見上げた。いつもは息子が顔を見せた瞬間嬉しそうな顔をするのだが、今は慎吾の顔に一瞬視線を投げるとすぐに何も言わずにテレビに顔を向けた。

父親の一番好きな部分はいつもニコニコしているところだった。小さい頃はよく戦争ごっこをして遊び、父親の稔は息子を「しんぼう」と呼んで友達同士のように接した。1年前に3番目の母親として博子が来る前は特に一緒に過ごす時間が長く、慎吾はいつの頃からか面白がって父親を「オッサン」と呼ぶようになっていた。

「なんや? 友達と話とったんか」

顔を背けたまま、オッサンが口を開いた。

「なーん、知らん人や。間違い電話やわ」

後ろ手でふすまを閉めながら、ことさら投げやりに慎吾は答えた。それは今あった電話の話はしないほうがいいぞと、腹の奥底で誰かに言われたような気がしたから。そしてもうひとつの理由は、先程オッサンとの間に起こった悶着だった。

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