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微笑がえし
石黒謙吾

プロローグ 一本の電話

冷えきった黒いセルロイドが耳に触れる。少年の手には持て余す重い受話器の向こうから、聞き覚えのない女性の声が。

「しんちゃん?」

女性にしてはやや低めの声音は弱含みで、しかし決意を込めて絞り出された気配が感じ取れる。その念を察知した慎吾の左瞼がピクッと動く。

「はい」

階段を下りてきたところで呼び出し音が鳴り、急いで電話機に向かったから、電灯も点けていない。今まで無人だった6畳の応接間には、カーテンのすき間から雪明かりが白く鈍く差し込むだけ。暖房なしの板の間で慎吾は小さく一度武者震いした。金沢の冬特有の、湿気をたっぷり含んだ冷気が、パジャマの裾から腿へ這うようにじわっと昇ってくる。

「……」

カチッという金属音が3回、秒を刻んで引きずる。音はそれだけ。

「もしもし……もしもし」

色気のないグレーの事務机の上に置かれた時計の長針と短針が闇の中で緑色に光って浮かび、つり上がった細長い2つの目となって慎吾を見ている。

「しんちゃんやね?」

「そうですけど。どちらさんですか」

受話器の向こうで猫の鳴き声がかすかに聞こえて、またぽつり。

「…元気?」

「誰ですか? 西村ですけど、かけたところ合ってますか」

指は痺れるほど冷たいのに、左手に握った受話器には掌の汗が粘りつく。右手の人差し指を螺旋状のコードに絡ませた。

「今度、中学2年生になるんやろ?」

見えない女のとまどいのない落ち着いた口調が慎吾の身体と意識をさらに硬直させていく。

「はぁ。あんた誰なん?」

13年の人生で体験したことのない不可思議な状況に声が上滑りする。暗闇に目が慣れ、ぼやっと見えてきたビニール張りのソファ、プラスチックの天板が乗ったテーブル。また秒針が響いた。5回。さっきより長い間隔に思えるがそんなはずはない。

「……」

「もしもし。誰なん? もしもしいっ!」

混乱と緊張が怖れに変わり、慎吾の声に怒気が滲む。

「え、誰なん? ねえ、誰や!」

カチャ。

姿は見えないが、女の指が電話機の白いフックをそっと押した気配。

ツーッ、ツーッ、ツーッ、ツーッ……。

慎吾は自分の受話器をしばらく耳につけたまま、念を送るように突然途絶えた向こうの情景を探った。

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