ホーム 『江國香織を読む』福田和也 第三回 『「ごっこ」の世界に生きる母と娘』 Page 6

あのひとと必ず会えるなんて、一体どうして信じていられたのだろう。草子がいなくなってしまったいま、あの人の存在さえ、私の想像の産物だったような気がする。あの目も、あの声も、あの腕も、草子がいなくなってしまったいま、あのひとがかつてたしかにこの世に存在し、私を愛してくれたということを、示す証拠は何一つない。

葉子は、十六年間の放浪生活を止め、東京に戻り、実家に電話をかけて草子の事を頼み、アパートを借りて、懐石料理屋のフロア係とステーキ屋のピアニストを兼務する。彼女も結局は、現実を受け入れたのだ……。

東京で生活に追われる葉子は、毎晩、ジントニックを呑みながら、「死は、やすらかなものとしてここにある。いつでも」と考えている。「体のあいだに皮膚なんて存在しないみたいな烈しくすばらしいセックス」のあとで、「あのひと」が言った、「――いつか俺たちが死んだら、水になるね」という言葉を思い出す。

「いつ死んでしまってもいい、というよりも、はやく死んでしまいたい」と思っている。

結末は、衝撃的である。

ドアがあいたとき、私には、振り向いて見る必要はなかった。

店の中は暗く、混んでいて音楽もきこえ、足音とか気配とか、そういうものはかき消されてしまう。それよりももっとずっと強いもの、個体としての、温度、のようなもの、力、のようなもの。

あのひとだ、と、わかった。

きのうも会い、約束をして、一日別な場所で働き、約束どおりきょうも会う、それほどの自然さで、ああ、あのひとだ、と、そう思った。

信じられない、と思ったのか、やっぱり、と思ったのか、区別がつかない。

あの人はゆっくり近づいて、私のうしろに立ち、右手でそっと、私の右頰にさわった。

「ひさしぶり」

穏やかな、なつかしい、私を骨抜きにする、いつもの声だった。

私は首をほんの少し右に傾け、あのひとの指を皮膚でたしかめようとした。感情は伴わなかった。顔をみることもできなかった。

「信じられない」

つぶやいて、私は自分がそう思っていることがわかった。

「俺も信じられない」

一度、対談の席で、江國さんに訊ねてみた。

あの結末というのは、葉子の妄想、あるいは幻想なのでしょうか……。

江國さんは、即座に否定した。

「違います、二人は本当に会えたんですよ」

怖いなぁ、と本気で思いました。

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「江國香織を読む」福田和也
第三回「ごっこ」の世界に生きる母と娘

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