ホーム 『江國香織を読む』福田和也 第三回 『「ごっこ」の世界に生きる母と娘』 Page 5

一方、母の幼さによって成熟を強いられた娘は、現実と渡り合う事を決意した――つまるところボートから降りる事を決断した娘は、みずからの手で「凄くレベルの高い学校」をみつけ、その全寮制の学校に入学すると伝える。

草子は頑固だった。

――これが現実なんだよ?

私の顔をみずにそう言った。

――あたしは現実を生きたいの。ママは現実を生きてない。

私には、何のことだかさっぱりわからなかった。ただ、顔を歪めて泣き出した草子を茫然とみていた。

――ごめんなさい。

小さな声で、苦しそうに草子は言った。

――なにをあやまるの?

草子は泣きじゃくっていた。泣きじゃくって、泣きやもうと洟をかみ、また泣きじゃくった。そうしてそれから湿った声で、

――ママの世界にずっと住んでいられなくて。

娘が離脱した途端、「神様のボート」は、難破し、解体されてしまう。

葉子が帰る事が出来る「場所」は、追憶、回顧でしかあり得ない。

あのひとには奧さんがいたし、私には桃井先生がいた。あのひとの店は臨時休業のシャッターをおろしたままだったし、「にっちもさっちもいかない」状態は、「借金とりにさえ同情されるありさま」で、やつれた笑顔でそんなふうに言うあのひとをみても、私にはどうしてあげることもできなかった。十二年前。私は二十五歳だった。

(中略)

何年も前、東京を離れたばかりのころは、私の方から伝言を載せた。

楽器店パサドのオーナー御連絡下さい。

とか、イエペスのギター曲テープを探しています。モーツァルトの主題による変奏曲で始まって、JUEGOS PROHIBIDOSで終わるやつです。

とか。イエペスのテープはいつかあのひとがつくってくれたものだ。

経営しきれずに店をしめたとはいえ、あのひとが音楽と関係のない世界にいるとは考えられないので、こういう雑誌をみてくれる可能性はあると思った。もしもみてくれたら――ただみてくれさえしたら――、すべて上手くいくはずだった。

そうしているうちに、葉子自身が、「あのひと」の存在をみうしなっていく。

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