ホーム 『村上春樹2011』福田和也 第三回 『国境の南、太陽の西』 Page 7

「僕は突然何もかもを有紀子に打ち明けてしまいたいという激しい衝動に駆られた。(中略)今度彼女が姿を見せたら、僕は何があっても彼女を抱くつもりでいるんだよ。僕にはこれ以上我慢することができないんだ。僕は彼女のことを考えながら君を抱くこともあるんだ」

けれども、「」は、真実を語る事はない。「有紀子に今そんなことを打ち明けたところで、何の役にも立ちはしない。おそらく我々全員が不幸になるだけだ

おそらく」の一語に、「」の享楽への期待と怯懦 (きょうだ)が結晶されている。

そして九時半に島本さんがそこにやってきた。不思議なことに、彼女はいつも静かな雨の降る夜にやってくるのだ

島本さんは、ピアノ・トリオがいつも演奏する曲、「スタークロスト・ラヴァーズ」について質問する。一九五七年――岸信介 (きしのぶすけ)が総理大臣になりスプートニク一号の打ち上げが成功した年――に、デューク・エリントンが書いた作品だ。「悪い星のもとに生まれた恋人たち。薄幸の恋人たち。英語にはそういう言葉があるんだ。ここではロミオとジュリエットのことだよ

島本さんは云う。「まるでなんだか私たちのために作られた曲みたいじゃない?

彼女は、小学生の時に二人で聴いたナット・キング・コールのLPを携えている。

どこかに行って、二人でこれを聴かないか

」の提案を島本さんは受け入れる。

箱根にある「」の別荘まで、BMWが走る。

あなたが運転しているのをこうして横で見ていると、私ときどき手を伸ばしてそのハンドルを思い切りぐっと回してみたくなるの。そんなことをしたら死んじゃうでしょうね」/「まあ確実に死ぬだろうね。130キロは出ているからね」/「私と一緒にここで死ぬのは嫌?

トリスタン-イズー的な性交の後に、島本さんは姿を消す。

生還した「」に有紀子は云う。「これが続いているあいだ、私は何度も本当に死のうと思ったのよ

けれど有紀子は死なず、「」との婚姻生活を維持する。

みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ

『国境の南、太陽の西』は以後の大作のような、超常現象や奇想天外なギミックをもたない。

村上春樹が描いた、唯一つの大人のための、中年の小説だ。

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「スタークロスト・ラヴァーズ」が収録されている
デューク・エリントンの『SUCH SWEET THUNDER』

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「村上春樹2011」福田和也
第三回「国境の南、太陽の西」

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