ホーム 『村上春樹2011』福田和也 第三回 『国境の南、太陽の西』 Page 5

それにたいして、島本さんは「私は生まれてこのかた一度も働いたことがないのよ」と云い、「あなたにはわかってないのよ。何も生み出さないというのが、どんなに空しいものかということが」と問いかける。

成功した僕は、自分の店を「架空の場所」と云い、「空中庭園」だと、笑う事が出来る。しかし、働いた事がなく、何も生み出した事がない島本さんは、そのように語る事ができない。語る資格がない。その資格を欠いた者の諦め、ひりひりとした絶望を前にして、「」は竦む。大人であることの空しさと、大人でしか在り得ない寂しさのなかで。

「島本さん」は、『ノルウェイの森』の直子と類似している。

とはいえ直子にはキズキと交わり、その時の自意識と性のズレという構図が、明確に提出されていた。

けれども、島本さんに関しては、具体的、現実的な背景は――小学生時代を除けば――何も解らない。再会した後、もたらされた情報は、父親が直腸癌で死んだという事ぐらいだ。あとは、6章における尾行劇ぐらいだろう。

小説の構成としては、イズミが、島本さんのペルソナをいくぶん担っている、と考えるべきかもしれない。「」が捨てた(離れた)女と、「」が毀した女。

直子において、統一されていた死への衝動が、『国境』では島本さんとイズミに分裂している。というよりも島本さんとイズミは同じ人物だと考えてもいいかもしれない。

「ふと目をあげたとき、そこにはイズミの顔があった。イズミは僕の前に停まっているタクシーに乗っていた。その後部座席の窓から、彼女は僕の顔をじっと見ていた。タクシーは赤信号で停車していて、イズミの顔と僕のあいだにはほんの一メートルほどの距離しかなかった。彼女はもう十七歳の少女ではなかった。でも僕にはその女がイズミであることが一目でわかった。それはイズミ以外の誰でもありえなかった。そこにいたのは僕が二十年も前に抱いた女だった。それは僕がはじめて口づけをした女だった。僕が十七歳の秋の昼下がりにその服を脱がし、ガードルの靴下どめをなくしてしまった女だった。二十年という歳月がどれだけ人を変えたとしても、その顔を見間違えることはなかった。『子供たちは彼女のことを怖がるんだよ』と誰かが言った。それを聞いたとき、僕にはその意味が摑めなかった。その言葉が何を伝えようとしているのか、うまく呑み込むことができなかった。でも今こうしてイズミを前にすると、僕には彼が言わんとしたことをはっきりと理解することができた。彼女の顔には表情というものがなかったのだ。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕はこう言うべきだろう。彼女の顔からは、表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた、と。それは僕に家具という家具「がひとつ残らず持ち出されてしまったあとの部屋を思い起こさせた」

表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られ」た、「家具という家具がひとつ残らず持ち出されてしまったあとの部屋」のようなイズミの表情は、あらゆる背景、プロフィールを欠いた島本さんの人生の合わせ鏡となるものだろう。たしかに「」は、島本さんと、彼女が生んだという赤ん坊の骨を流すために、日本海に注ぐ川の岸辺まで行った。それは、ある背景を示唆し、憶測を巡らし得る材料ではあるが、話者も読者も、その内実を把む事は出来ない。ただ、解るのは、島本さんが、その子供の骨を流す時に、頼る事が出来たのは、「」だけだ、という事である。

そしてまた、島本さんはバーに現れなくなる。

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「村上春樹2011」福田和也
第三回「国境の南、太陽の西」

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