ホーム 『村上春樹2011』福田和也 第二回 『ノルウェイの森』 Page 6

「東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くこと――それだけだった」と、ワタナべは述べる。けれど、結局その試みはうまくいかず、ぼんやりとした気配が漂い、塊になり、明確な形をとるようになり、そしてついに形は言葉に置き換えられる。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している

キズキの死後、ワタナべは、「死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ」と認識したと語る。「でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。」

直子と対照的に、とにかく深刻にならないように、物事を真剣に詳らかにしないようにワタナべは努めている。

それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ

そして緑が登場する。

世話になっている女性編集者に、「学生の頃、ずっと緑のようにならなければ、と思ってました」「告白」された事があった。

小説の読み方としては、それで正しい(というのも変だが)という気がする。

映画はあきらかに直子の物語だけれど、小説は緑のものだ。

『螢』という短編が、『ノルウェイの森』として孵化 (ふか)するために、もっとも必要とされていたのは緑であり、緑の存在が長編小説を可能にした。

ワタナベの、心、ここあらずという反応により、傷つけられた緑が二ヶ月ぶりにワタナべに話かけた後、ごはんを食べに行こう、と提案する。

『ごはん食べに行きましょう。おなかペコペコ』と緑は言った。
『どこに行く?』
『日本橋の高島屋の食堂』
『なんでまたわざわざそんなところまで行くの?』
『ときどきあそこに行きたくなるのよ、私』

高島屋の地下の食堂で、サンプルを眺めた後、二人は幕の内弁当を注文する。

緑は、デパートで食事をすると「なんだか特別なことをしているような気持になる」と云う。

ワタナべは「デパートなんか行くの好きじゃないもの」と云う。母親にたびたび連れていかれてウンザリしているのだ。

ここで、二人の送ってきた生活の、文化の位相の違いが示される。

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